清水扇稲荷神社|千代田区東神田の神社

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清水扇稲荷神社|千代田区東神田の神社

清水扇稲荷神社の概要

清水扇稲荷神社は、千代田区東神田にある稲荷神社です。清水扇稲荷神社は、文政6年(1823)に印刷された縁起によると、当初鎌倉扇ヶ谷に鎮座していたものの、応仁2年(1466)の洪水により社殿破損、祠官太田左衛門が千代田区(旧清水村)へ遷座、清水扇稲荷大明神と称していたといいます。戦前まえは縁日も賑わっていたものの戦争を機に縁日も行われなくなり、昭和30年ころには例祭も行われなくなったといいます。

清水扇稲荷神社
清水扇稲荷神社の概要
社号 清水扇稲荷神社
祭神 宇賀霊尊
相殿 -
境内社 -
祭日 -
住所 千代田区東神田2-9
備考 -



清水扇稲荷神社の由緒

清水扇稲荷神社は、文政6年(1823)に印刷された縁起によると、当初鎌倉扇ヶ谷に鎮座していたものの、応仁2年(1466)の洪水により社殿破損、祠官太田左衛門が千代田区(旧清水村)へ遷座、清水扇稲荷大明神と称していたといいます。戦前まえは縁日も賑わっていたものの戦争を機に縁日も行われなくなり、昭和30年ころには例祭も行われなくなったといいます。

「千代田の稲荷」による清水扇稲荷神社の由緒

清水扇稲荷神社には「文政六年」(一八二三)の年記がある縁起(刷物)が伝えられている。それによると、当社は「宇賀霊尊」を祭神としており、相模国鎌倉の「扇か谷」に鎮座していた神であるが、応仁二年戊子(一四六六)八月の大洪水で社殿が破損したため、「藤原持成」の血を引く「祠官太田左衛門」という人物が、武州豊嶋郡清水村の「太郎兵衛」所有の地内にこの神を仮遷座させた。以降、この神祠を「清水扇稲荷大明神」と称して信仰したのが始まりであると伝えている。
明治期から震災後までの詳細は不明であるが、関係者によれば戦前までは毎月六・一六・二五日に縁日が出ていたとのことである。現在よりも広かった境内に子供たちが集まり、大人は将棋を指すなどして大変賑わっていたというが、戦争を境に縁日はなくなった。また毎年四月一五日の大祭には、神田神社から神職を招いて神事が行われた。子供たちにはお菓子を配ったり、屋台を組んで舞踊の師匠などに踊りを抜露してもらったりして地域で祝っていたが、住民の減少もあって昭和三〇年くらいに途絶えてしまった。現在では、祭礼などは行なわれていないが、近隣の有志によって祀られている。
戦災で社殿は焼失するが、ほどなく木造で再建され、その後昭和五〇年ころに再び改修している。また杜殿を囲む外塀には火消の纏が描かれており、 「事業会」や「一寿地会」の名がみえる。「一寿地会」とは、トピたちが組織する木遣睦の「声寿会」「一声会」「地蔵講」を再編して結成された会のことであり、近隣に住んだトピのカシラが奉納したものである。(「千代田の稲荷」より)


清水扇稲荷神社の周辺図


参考資料

  • 「千代田の稲荷」