白幡稲荷神社|旧福田村の鎮守
白幡稲荷神社の概要
白幡稲荷神社は、中央区日本橋本石町にある稲荷神社です。白幡稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、源義家が奥州下向に際して白旗を立てたのに始まると伝えられ、日本橋本石町3丁目周辺(福田村)の鎮守社として祀られていたといいます。昭和51年当地へ移転したといいます。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 宇迦之御魂神 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 中央区日本橋本石町4-5-16 |
備考 | - |
白幡稲荷神社の由緒
白幡稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、源義家が奥州下向に際して白旗を立てたのに始まると伝えられ、日本橋本石町3丁目周辺(福田村)の鎮守社として祀られていたといいます。昭和51年当地へ移転したといいます。
境内掲示による白幡稲荷神社の由緒
抑々白幡稲荷神社ハ東京府武蔵国(日本橋区本銀町壱丁目拾八番地)官有地白幡橋詰にあり。御祭神は宇迦之御魂神古来白幡稲荷神社と称す。享保三年戊戌年当山派修験大寿院元明別当職ダシ以来神勤す。八世秀麿に至り明治六年一月神勤を免ぜられ神田神社兼勤社となる。鎮座年代不詳なれども社伝によれば源義家奥州下向ノ途次社頭に白旗ヲ樹てしに始まると云ふ。又新編江戸誌に三寶院派別当大寿院和銅四年鎮座トアリ(和銅四年は人皇四十三代元明天皇の御宇にして今より千二百十余年前なり)何れか詳かならずと雖も本区最古のものなるべきか。往時武蔵国福田村の一部にして江戸開府の頃には神田八丁堀乃ち龍閑川界として以南を江戸とし以西を神田とせり。町名は江戸時代に銀工の多数居住せしに依り起れりと云ふ。当社は大正拾二年九月壱日大震火災の際烏有に帰したるも幸い御神体を奉避し依頼区劃整理にて当町六番地へ換地指定町会員並に建築委員の努力により再建の準備を整へ昭和四年拾月建築に着手す
昭和五年拾五日完成 同時に大祭礼を行ふ(白旗稲荷神社崇敬会・日本橋本石町々会掲示より)
「中央区史」による白幡稲荷神社の由緒
明治六年日枝神社兼務上となり、大正震災後現在地に移転した。崇敬者七〇人。(「中央区史」より)
東京都神社名鑑による白幡稲荷神社の由緒
往昔、日本橋本石町三丁目銀町の辺を福田村といい、その鎮守の神として祀られた。白旗稲荷とは、源義家が奥州征伐の途次白旗を社頭にたて祈癒したことにより称される。享保三年(一七一八)大寿院元明別当七世恵休が明治元年に復職し、小野大学と称して神勤、八世小野秀麿に至り神勤が免ぜられた。明治十六年神田神社の兼務社となる。大正十二年九月一日関東大震災により社殿をはじめ諸施設をことごとく焼失。その後ただちに氏子崇敬者の奉賛により社殿・社務所が復興される。昭和五十一年三月東北新幹線計画道にあたり、社地を現在地に移し、鉄筋コンクリート造流造朱塗の社殿をはじめ社務所その他諸施設を整える。(東京都神社名鑑より)
「日本橋區史」による白幡稲荷神社の由緒
白旗稲荷神社
本銀町一丁目十八番地にあり。新編江戸志に、別當大壽院三寶院派、和銅四年鎮座云々とあり。然るに江戸名所図會は、福田稲荷は、福田村といひし頃の鎮守なり。本銀町一丁目の大壽院持の白幡稲荷とは自ら別なりとす。社傳によれば、源義家の奥州下向の途次、社頭に白幡を樹てしに始まると。老少相傳の實を失ひて據る所を知らず。今神田神社に屬す。末社に金刀比羅神社あり。(「日本橋區史」より)
東京名所図会による白幡稲荷神社の由緒
白旗稲荷神社
白旗稲荷神社は、日本橋本銀町一丁目十八番地、白旗橋の袂に在り、無格社にして神田神社に属せり。新編江戸志云、白旗稲荷社、銀町一丁目、別當大壽院(三寶院派)すべて石町一丁目銀町の邊、往古は福田村といふ里のよし、その時の鎮守といふ、和銅四年より鎮座と、云々」又江戸名所圖會、福田村舊跡の條に福田稲荷を載せて、今本銀町一丁目に白旗稲荷とて、三寶派大壽院もちの宮は、自別なり。」と辨じ、福田村と云いし頃の鎮守にはあらざりしかの如くに記しぬ。神社に就て尋ぬるに、白旗稲荷の稱は、源義家、奥州征伐の途次、白旗を社頭に樹てたりとなむいへり。由来は詳らかならず。明治以前迄は、大壽院とて別當は修験者なりき。境内五十坪。石の鳥居あり、社殿土蔵造にして拝殿には、左右に随身を置き、神鼓を据えて、幣帛を立てぬ。額面あり、「元治二年乙丑春、室勘七寫」、町火消の繰出す圖を畫けり。大祭は、例年四月午日にして、氏子は、本銀町一丁目たり、其の昔、當社の鳥居玉垣等も、朱塗なりしことを、狂歌江都名所圖會(二)に、
鳥居こそ赤く色どれ平家かた宮は源氏の白旗稲荷 望月楼
玉垣の朱い平家に見ゆれども源しるししら旗稲荷 末のや
等見えたり。末社に金刀比羅の社あり。(東京名所図会より)
白幡稲荷神社の周辺図