法村松山重寺|村松山法重坊と号して創建
法重寺の概要
浄土真宗本願寺派寺院の法重寺は、村松山と号します。法重寺は、南条則清(法名空了)が天正19年(1591)日本橋村松町の茅野を開拓して、坊舎を建てて村松山法重坊と号して創建、明暦の大火後、築地本願寺と共に当地へ移転したといいます。
山号 | 村松山 |
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院号 | - |
寺号 | 法重寺 |
住所 | 中央区築地3-17-10 |
本尊 | 阿弥陀如来立像 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
法重寺の縁起
法重寺は、南条則清(法名空了)が天正19年(1591)日本橋村松町の茅野を開拓して、坊舎を建てて村松山法重坊と号して創建、明暦の大火後、築地本願寺と共に当地へ移転したといいます。
法重寺栞による法重寺の縁起
法重寺の歴史は、空了が村松町(現・東日本橋一丁目)にあった本願寺元地に坊舎を建て、村松山法重坊と称した天正19年(1591)に始まります。
明暦の大火後、本願寺が築地に移ると法重寺も現在の地に移りました。(法重寺栞より)
「中央区史」による法重寺の縁起
松村山 法重寺
開基空了は俗称を南条則清といゝ、日本橋村松町の茅野を開拓してそこに坊舎を建て、村松山法重坊と称したのが創建の由来である。慶長一三年浄土真宗に帰依し、麻布善福寺の門徒となり本仏寺号を賜り寺号を法重寺と改めた。のち寺基を浅草御門内に移し、更に御坊とともに築地に移った。明治五年大火、大正一二年震災に堂舎を失い、昭和四年四月木造瓦葺二階建一棟の本堂・庫裡を新に造営した。初代尾張屋関三十郎遺品の面をはじめ古美術品を多数所蔵する。現在壇家は一〇〇余戸。(「中央区史」より)
法重寺所蔵の文化財
- 紙本墨画淡彩瀑布図(中央区民登録文化財)
- 絹本着色白梅図(中央区民登録文化財)
- 法重寺の大鏧(中央区民登録文化財)
法重寺の大鏧
法重寺の歴史は、空了が村松町(現・東日本橋一丁目)にあった本願寺元地に坊舎を建て、村松山法重坊と称した天正19年(1591)に始まります。
明暦の大火後、本願寺が築地に移ると法重寺も現在の地に移りました。
大鏧は鉢型の打楽器で法要の読経の時などに打ち鳴らすものです。
大鏧の口縁部に「慶長三年正月吉祥日 村松山法重寺」の銘文が見えます。
区の歴史を伝え、織豊 時代の在銘をもつ寺社の什器物として、また地域の信仰とともに生きた文化財として貴重なものです。(中央区民文化財)
法重寺の周辺図