相馬中村神社。中村城内に祀られた相馬氏の氏神、相馬三妙見社
相馬中村神社の概要
相馬中村神社は、相馬市中村字北町にある神社です。相馬中村神社は、奥州相馬氏の先祖である平将門が崇敬した妙見宮を、奥州相馬氏が祀り続け、一七代相馬利胤公が小高城から中村城に慶長16年(1611)に移り住んだ際、城内に「妙見宮」として創祀したといいます。明治維新後の神仏分離令により信仰対象を妙見菩薩から天之御中主命へ、社号を妙見宮から相馬中村神社へ改めています。相馬太田神社、相馬小高神社とともに相馬三妙見社の一つとして相馬野馬追が当地から出陣することでも著名です。
社号 | 相馬中村神社 |
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祭神 | 天之御中主大神 |
相殿 | - |
境内社 | 北野天満宮、水神、国王社、足尾神社、松尾神社、塩釜・黄金神社 |
祭日 | 例大祭4月22日、野馬追祭4月24日 |
住所 | 相馬市中村字北町140 |
備考 | - |
相馬中村神社の由緒
相馬中村神社は、奥州相馬氏の先祖である平将門が崇敬した妙見宮を、奥州相馬氏が祀り続け、一七代相馬利胤公が小高城から中村城に慶長16年(1611)に移り住んだ際、城内に「妙見宮」として創祀したといいます。明治維新後の神仏分離令により信仰対象を妙見菩薩から天之御中主命へ、社号を妙見宮から相馬中村神社へ改めています。
境内掲示による相馬中村神社の由緒
相馬中村神社の歴史
当神社は、相馬地方の旧藩主・相馬家と深いつながりのある神社でありまして、社伝によると承平年間(九三一~九三七)に奥州相馬氏の先祖・平将門が下総国(現在の千葉県)に妙見宮を創建したことにはじまります。奥州相馬氏初代師常公は先祖にならい下総国相馬郡に妙見宮を祀り、「平泉の役」の戦功により本領のほか陸奥国行方郡を与えられました。
六代重胤公の時代、元享三年(一三二三)になり相馬氏は一族郎党八十三騎を従え、それまでの本拠地・鎌倉下総の国流山からはじめて行方郡に移ってまいりました。この時、神社の祠官・田代左衛門大夫信盛も鎮守妙見の神輿に遷従し、重胤に同行したのです。
妙見信仰の崇拝者でありました相馬氏は、はじめての居住地であった太田(福島県原町市)から建武三年(一三三六)に小高城(福島県相馬郡小高町)に居城を移した際も、またその後、一七代利胤公が慶長十六年(一六一一)に中村城に移り住んだ際も、その城内に妙見宮をお祀りしました。この中村城内に祀られました妙見宮が現在の相馬中村神社でして、中村城域(別名馬陵城)は現在県指定の史跡となっております。
このように当神社は相馬家代々の氏神として崇敬とくに厚かったばかりでなく、その信仰は相馬地方に広がり、今日にいたっております。(境内掲示より)
相馬中村神社所蔵の文化財
- 相馬野馬追(国指定重要無形民俗文化財)
- 中村城跡(福島県指定史跡)
- 相馬中村神社社殿(国重要文化財)
相馬野馬追について
野馬追祭
承平元年(九三一)平将門が下総国小金ヶ原で行ったのがはじまりで、相馬藩公は五月中の申の日に騎馬数千を率いて野馬を追って士気を鼓舞した。廃藩後は祭日を七月一日、二日と改め、明治三十七年(一九〇四)からは七月十一、十二、十三日を祭日とし、昭和三十六年には七月十七、十八、十九日とし、更に昭和四十一年より七月二十三、二十四、二十五日と改められた。明治四十一年(一九〇八)十月九日、大正天皇が皇太子のとき御覧になり、昭和十六年四月七日代々木原頭で行なわれた興亜馬事大会に出場して天覧の栄に浴した。(「小高町史」より)