廿日市天満宮。廿日市市天神の神社
廿日市天満宮の概要
廿日市天満宮は、広島県廿日市市天神にある神社です。廿日市天満宮は、藤原親実公が厳島神社神主に任命され、廿日市の桜尾城に着任、天福元年(1233)に守護神として鎌倉の荏柄天神を勧請して創建したといいます。神主藤原家は大内氏に滅ぼされ、大内氏も滅亡し当社も荒廃したものの、厳島大聖院良仙が再興したといいます。
社号 | 天満神社 |
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祭神 | 菅原道真公 |
相殿 | 八幡宮(仲哀天皇・応神天皇・神功皇后)、新宮(伊邪那岐命・伊邪那美命)、新八幡宮(藤原親実公以後十五代神主の霊) |
境内社 | 胡子神社、豊受神社、稲荷神社、淡島神社、琴比羅神社 |
祭日 | 10月第二日曜日 |
住所 | 廿日市市天神3-2 |
備考 | 御旅所:新宮神社 |
廿日市天満宮の由緒
廿日市天満宮は、藤原親実公が厳島神社神主に任命され、廿日市の桜尾城に着任、天福元年(1233)に守護神として鎌倉の荏柄天神を勧請して創建したといいます。神主藤原家は大内氏に滅ぼされ、大内氏も滅亡し当社も荒廃したものの、厳島大聖院良仙が再興したといいます。
「広島縣神社誌」による廿日市天満宮の由緒
天福元年(一二三三)厳島神社神主の藤原親実は、菅原の聖廟を移して守護神と為さんと欲し、篠尾山に社殿を創建して鎌倉の荏柄天神を勧請した。これが当社の創祀であって、以後この山を天神山と言う。親実公より十五代続いた神主家は天文十年(一五四一)大内氏に討たれ断絶したが、天満宮の祭礼神事は大内氏が厳島の上卿や棚守職らに命じて往古の如くに行わせ、神田も寄進したという。その後、大内氏も滅亡して百年余りの間に社殿も荒れ転倒するに及ぴ、厳島大聖院の僧良仙はこれを憂い、遠近を尋ね、岩国から杉氏暁音という真言の僧を迎えて、慶安五年(一六五二) 社殿を再建した。また、社傍に一寺を造り天満宮別当正覚院(天神坊)と称していたが、明治維新の際分離している。慶安後の社殿は明治十八年に焼失し、現在のものは同二十二年に再建した。なお、同殿に祀る熊野新宮(伊邪那美命)は、寛文四年(一六六四)に下平良村(現廿日市市下平良)の新宮神社より勧請している。(「広島縣神社誌」より)
境内掲示による廿日市天満宮の由緒
廿日市天満宮由緒
鎌倉時代の承久二年(西暦一二二〇年)に、藤原親実公が厳島神社の神主として幕府より任命され、廿日市の桜尾城に着任の後、天福元年(一二三三年)に守護神として鎌倉の荏柄天神を勧請してこの篠尾山に社殿を造り鎮座された。(境内掲示より)
境内社胡子神社について
不詳。もとは、住吉一丁目四五九に鎮座していたが、昭和三十年頃に移転して、現在は天神三-二鎮座の天満神社境内社となっている。(「広島縣神社誌」より)
廿日市天満宮所蔵の文化財
- 篠尾城跡
廿日市天満宮の周辺図
参考資料
- 「広島縣神社誌」