徳玄寺。岩手県盛岡市名須川町にある真宗大谷派寺院

猫の足あとによる首都圏外寺社案内

池水山徳玄寺。宮沢賢治下宿の地

徳玄寺の概要

真宗大谷派寺院の徳玄寺は、池水山と号します。徳玄寺は、三戸郡石津村を寛正年間(1469-1487)に開拓した石津善次郎政邑が出家、徳玄と名乗り創建、盛岡城築城に従い寛永年間(1624-1644)に当地へ移転したといいます。また宮沢賢治が盛岡中学校(現盛岡一高)在学中、当寺に下宿していたといいます。

徳玄寺
徳玄寺の概要
山号 池水山
院号 -
寺号 徳玄寺
住所 盛岡市名須川町15-8
宗派 真宗大谷派
葬儀・墓地 -
備考 -



徳玄寺の縁起

徳玄寺は、三戸郡石津村を寛正年間(1469-1487)に開拓した石津善次郎政邑が出家、徳玄と名乗り創建、盛岡城築城に従い寛永年間(1624-1644)に当地へ移転したといいます。

「盛岡の寺院」による徳玄寺の縁起

開山
当寺は真宗大谷派京都東本願寺の末寺である。開基は俗姓石津善次郎政邑と称する武士であるが、生国は詳らかでない。寛正年中(一四六〇~六六)奥州三戸郡五戸村に下向して原野を開墾し、その地を石津村と号していた。
文明年中(一四六九~八七)長男善五郎を連れて京都に上り、本願寺法主蓮如上人の弟子となり、法名を玄永と賜った。善五郎も同じく得度して保玄という法名を賜った。法主から山号寺号と本尊を賜って五戸に帰り、一宇を建立して遠近の道俗を化導していた。
寺院沿革
五戸に徳玄寺を開いておよそ百五十年後、南部氏が三戸から盛岡に移るに及んで、寛永年中(一六二四~四四)玄海の代に五戸から現在地に移転した。
当寺の紋は南部家と同じ九曜付き向かい鶴で、南部氏との古くからの関わりが想像される。(「盛岡の寺院」より)


徳玄寺所蔵の文化財

文化財ではありませんが、当寺には宮沢賢治が寄宿していたころから、宮沢賢治ゆかりの寺として紹介されています。

宮沢賢治ゆかりの地(徳玄寺)

宮沢賢治(明治29年(1896)~昭和8年(1933))は、岩手県稗貫郡里川口(現花巻市)で生まれた。盛岡中学校(現盛岡一高)、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)時代の多感な青春時代を盛岡で過ごしている。
このあたりの北山、名須川町地区は、藩政時代からの寺町で、多くの寺院が並んでおり、賢治とのかかわりも深い。明治42年(1909)盛岡中学校に入学、自彊寮に寄宿。4年生の3学期、寄宿舎の舎監排斥運動で寮を追われ、卒業までの1年間お寺に下宿した。
最初にお世話になったのが清養院(曹洞宗)①、そして5月には徳玄寺(浄土真宗)②に移った。-たくさんの文学書、宗教書を読み夜には本堂の縁側で月光をあびながら深い思いにふけった。-
五百羅漢のある報恩寺(曹洞宗)③では、たびたび参禅し仏教を学んでいった。大正3年(1914)3月、盛岡中学校を卒業。盛岡高等農林学校への進学を許され、翌年1月から3か月ほど教浄寺(時宗)④に下宿、受験勉強に打ち込み、盛岡高等農林学校に首席入学。
願教寺(浄土真宗)⑤では、島地大等の法話を聴き感動する。
賢治の生涯をつらぬく信仰の本源となる。(盛岡市・盛岡観光協会掲示より)

徳玄寺の周辺図


参考資料

  • 「盛岡の寺院」(盛岡市仏教会)