教浄寺。岩手県盛岡市北山にある時宗寺院

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擁護山教浄寺。南部五山、宮沢賢治下宿の地

教浄寺の概要

時宗寺院の教浄寺は、擁護山無量院と号します。教浄寺は、南部十一代信長公が、北条高時に殉じて割腹した兄の十代右馬頭茂時公(教浄寺殿正阿清空天心大居士)の菩提のため、正慶2年(1333)青森県三戸に建立、盛岡城築城に伴い、慶長17年(1612)当地へ移転、寺領200石を受領し、南部五山の一つと称されています。また宮沢賢治が盛岡高等農林学校(岩手大学農学部)に入学する直前の3ヶ月を当寺に下宿していたといいます。

教浄寺
教浄寺の概要
山号 擁護山
院号 無量院
寺号 教浄寺
住所 盛岡市北山1-13-25
宗派 時宗
葬儀・墓地 -
備考 -



教浄寺の縁起

教浄寺は、南部十一代信長公が、北条高時に殉じて割腹した兄の十代右馬頭茂時公(教浄寺殿正阿清空天心大居士)の菩提のため、正慶2年(1333)青森県三戸に建立、盛岡城築城に伴い、慶長17年(1612)当地へ移転、寺領200石を受領し、南部五山の一つと称されています。

「盛岡の寺院」による教浄寺の縁起

開山・縁起
南部十一代信長公が、正慶二年(一三三三)兄の十代右馬頭茂時公の菩提のために青森県三戸に建立。茂時公は鎌倉で幕府滅亡の際、北条高時に殉じ割腹。遊行第五世安国上人の引導を受け、数名の遺臣と共に、神奈川県藤沢市の時宗総本山清浄光寺(通称、遊行寺)に埋葬されている。寺号は茂時公の戒名「教浄寺殿正阿清空天心大居士」からとった。開祖は覚阿湛然和尚である。
寺院沿革
南部利直公が盛岡に移城した慶長十七年(一六一二)七月、三戸から現在の地に移転した。残念ながら三戸時代の記録はほとんど残っていない。盛岡南部五山の一つで、寺領二百石を与えられ、南部家の手厚い庇護を受けた。(「盛岡の寺院」より)


いいお墓

教浄寺所蔵の文化財

文化財ではありませんが、当寺には宮沢賢治が寄宿していたころから、宮沢賢治ゆかりの寺として紹介されています。

宮沢賢治ゆかりの地(教浄寺)

宮沢賢治(明治29年(1896)~昭和8年(1933))は、岩手県稗貫郡里川口(現花巻市)で生まれた。盛岡中学校(現盛岡一高)、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)時代の多感な青春時代を盛岡で過ごしている。
このあたりの北山、名須川町地区は、藩政時代からの寺町で、多くの寺院が並んでおり、賢治とのかかわりも深い。明治42年(1909)盛岡中学校に入学、自彊寮に寄宿。4年生の3学期、寄宿舎の舎監排斥運動で寮を追われ、卒業までの1年間お寺に下宿した。
最初にお世話になったのが清養院(曹洞宗)①、そして5月には徳玄寺(浄土真宗)②に移った。-たくさんの文学書、宗教書を読み夜には本堂の縁側で月光をあびながら深い思いにふけった。-
五百羅漢のある報恩寺(曹洞宗)③では、たびたび参禅し仏教を学んでいった。大正3年(1914)3月、盛岡中学校を卒業。盛岡高等農林学校への進学を許され、翌年1月から3か月ほど教浄寺(時宗)④に下宿、受験勉強に打ち込み、盛岡高等農林学校に首席入学。
願教寺(浄土真宗)⑤では、島地大等の法話を聴き感動する。
賢治の生涯をつらぬく信仰の本源となる。(盛岡市・盛岡観光協会掲示より)

教浄寺の周辺図


参考資料

  • 「盛岡の寺院」(盛岡市仏教会)