善徳寺。栃木県足利市大町にある臨済宗妙心寺派寺院

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東光山善徳寺。足利尊氏開基・佛満禅師開山

善徳寺の概要

臨済宗妙心寺派寺院の善徳寺は、東光山と号します。善徳寺は、足利尊氏を開基として、(足利氏の支流今川氏で、)建長寺円覚寺浄智寺の各山を歴住した佛満禅師が応安元年(1368)に開山したといいます。佛満禅師は、円覚寺の塔頭續燈庵や北郷村田島光明寺も創建しています。

善徳寺
善徳寺の概要
山号 東光山
院号 -
寺号 善徳寺
本尊 -
住所 足利市大町1-2
宗派 臨済宗妙心寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



善徳寺の縁起

善徳寺は、足利尊氏を開基として、(足利氏の支流今川氏で、)建長寺円覚寺浄智寺の各山を歴住した佛満禅師が応安元年(1368)に開山したといいます。佛満禅師は、円覚寺の塔頭續燈庵や北郷村田島光明寺も創建しています。

「足利市史」による善徳寺の縁起

善徳寺(臨済宗)尊氏将軍開基
一位置
本市大町、尋常小學東校の東に在り。東光山善徳寺と號す。往古は鎌倉圓覺寺末、行道山浄因寺末たりしが、明治二十七年、京都妙心寺派に屬す。現時は、同派別格地一級の寺格たり。古くは、毛野村岩井にありしが、慶長年中(紀元二二五六-七四年)現在の地に移轉せり。
本尊は、薬師如来にして、檀徒五百戸あり。
二沿革
『寺記』によれば、當山の開基は、足利尊氏にして、開山は佛満禅師北朝後村上院の應安元年(紀元二〇二八年)申九月創建といふ。佛満禅師は、鎌倉圓覺寺の開山佛光國師四世の法孫にして、建長・圓覺・浄智の各山に歴住せしことあり。其の決闘は、足利氏の支流なる今川氏にして、今川基氏の子法圻なり。禅師は鎌倉續燈院の開山にして、當寺の外、北郷邑田島光明寺も、亦創建せり。
當山安置の本尊薬師如来は、今川了俊の父範國(禅師の實弟)の持念佛にして、恵心僧都の作と傳ふ。
範國は、正平二十年(貞治四年・紀元二〇二五年)四月晦日卒。年六十九。兄佛満禅師の示寂に先だつこと四年なり。
正平十三年(延文三年・紀元二〇一八年)四月、尊氏薨去の後、其の木坐像及び靈牌を安置すといふ。但し現在の坐像は、後代の作ならむ。靈牌には「等持院殿贈大相國一品仁山義公大禅定門」とあり。
當時、圓覺寺の直末となり、宿坊を續燈院といふ。尚『寺記』によれば、當寺は、代々頭堂職を賜はり、正平二十三年(應安元年・紀元二〇二八年)九月廿四日、開山示寂の後、二百數十年間、圓覺寺の末寺たりしといふ。
後陽成天皇の慶長五年(紀元二二六〇年)、徳川家康關ヶ原合戦の前、結城秀康小山に在りて、上杉景勝の進出を防止せむとするや、當山第十世丘甫和尚を陣中に召され、吉凶勝敗の卜を仰付けられ、吉卦を得しに、果して大捷せしかば、秀康是れより、和尚を崇敬し、種々の下賜品ありしといふ。
中興の僧を圭峯和尚といふ。妙心寺末、出羽國米澤法泉寺の分法にて、明正天皇の寛永十年(紀元二二九三年)三月、當寺住職となり、後光明天皇の正保三年(紀元二三〇六年)十月廿一日、示寂せり。(過去帳)仁孝天皇の天保二年(紀元二四九一年)正月、當寺は、足利學校と共に、火災に遇ひて、殿堂什寶等の多くの灰燼に附せり。
第廿一斉祐天和尚之が再建を志し、刻苦悴礪、遂に現在の大伽藍、其の他を竣工せり。現住柴田慈孝(曹庵)、寺門の繁榮と、法風の興隆とに努力し、享保十九年(紀元二三九四年)、天慧和尚の代に作りし鐘及び諦宗の代建造せる鐘樓を、焼失せるを嘆きて、再建を志し、大正十三年四月、鐘及び鐘樓の落慶式を擧行せり。
明治維新前には、寺内に常照庵・實島庵の二寺ありしも、後當寺に合併せらる。當寺の定紋を〇二(足利紋)となすは、足利氏關係を示す爲ならむか。足利郡毛野村岩井本城の地蔵堂あり。本尊は地蔵菩薩なり。明治四十四年六月、境内佛堂として、其の筋の許可あり。尚地蔵堂には、「乳房地蔵尊」あり。丈六尺の石像なり。乳なき者祈願して、効驗著しといふ。その由緒不詳なるも、恐らく千年寺關係のものにはあらざるか。(「足利市史」より)


善徳寺の周辺図


参考資料

  • 「足利市史」