大島稲荷神社|江東区大島の神社

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大島稲荷神社|旧大島村・大島町の鎮守

大島稲荷神社の概要

大島稲荷神社は、江東区大島にある稲荷神社です。大島稲荷神社は、慶安年間(1648-1652)に創建したと伝えられ、大島村・大島町の鎮守であったといいます。明治36年に浅草(入谷)の太郎稲荷神社を、昭和19年に大島村愛宕神社(大島5丁目)を合祀、昭和63年には佐竹神社を造営したといいます。

大島稲荷神社
大島稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 蒼稲魂神
合祀 宇迦能魂神、迦具土之命(愛宕神社)
境内社 佐竹神社
祭日 大祓式(芽の輪くぐり)6月30日・12月31日
住所 江東区大島5-39-26
備考 旧大島村・大島町の鎮守



大島稲荷神社の由緒

大島稲荷神社は、慶安年間(1648-1652)に創建したと伝えられ、大島村・大島町の鎮守であったといいます。明治36年に浅草(入谷)の太郎稲荷神社を、昭和19年に大島村愛宕神社(大島5丁目)を合祀、昭和63年には佐竹神社を造営したといいます。

新編武蔵風土記稿による大島稲荷神社の由緒

大島村
稲荷社
愛宕社(亀出神社
共に村内及び大島町の鎮守なり。勝智院持。
霊巌寺領の内にて愛宕社の邊りを云。古へ霊巌寺の住僧松風起立し、其後珂碩和尚庵住せり。然るに洪水のために堂宇流失しかば、本尊以下悉く荏原郡奥沢新田に移せしと云。(新編武蔵風土記稿より)

「江東区の民俗城東編」による大島稲荷神社の由緒

大島稲荷神社
「神社明細帳」によれば、創立は慶安年間(一六四八~五二)であるという。『南着飾郡神社要覧』によれば、明治三六年(一九〇三)に浅草区光月町の太郎稲荷という稲荷神社を合祀した。『武江年表』によれば、浅草田圃立花侯下屋敷太郎稲荷社は享和年間(一八〇一~〇四)から信仰を集め、文化三年(一八〇六)にはすたれ、慶応三年九月ころより再度信仰を集め、翌年四月には途絶えたという神社で、流行神であったようである。
「神社明細帳」によれば、昭和一九年に大島村五四(旧大島五丁目)の愛宕神社を合祀した。この愛宕神社境内には「女木塚句碑」がある。芭蕉の「女木塚 秋に添て行ぼや末ハ小松川」という句を其日庵社中が建てたものである。この句は小名木川あたり桐奚という人の家で俳諧の集まりがあり、そこで芭蕉が詠んだものであり、元禄五年(一六九二)のころであるという(『江東事典(史跡編)』)。碑を建てた其日庵とは葛飾風の祖山口素堂の別号である。葛飾風は其日庵三世素丸が天明四年(一七八四)に着葛飾蕉門と称した後江戸俳壇に広まった(『俳句辞典』近世)。この芭蕉句碑は天明以降に建てられたものと推測できる。
戦災により、この社は焼失し、昭和二一年に仮殿を建てた。なお、この社の境内が都市計画道路の予定地となり、社殿の建築が遅れ、昭和四二年に完成した(「大島稲荷神社復興建設趣意書」)。(「江東区の民俗城東編」より)

境内掲示による大島稲荷神社の由緒

和銅4年(707年)元明天皇大和朝廷時代(蒼稲魂神)が轟く雷鳴とともに2月初午の日、初めて伊奈利山の験の形に降臨してから、稲荷信仰として始まると云う。朱雀天皇の天慶5年(蒼稲魂神)に正一位という再興の神位階に昇られました。明正15年(※江戸時代で15年以上続いた年号は、慶長・寛永・元禄・享保のみ、明正という年号は存在せず)江戸時代ご創建と当神社伝えられる。由来同地は、海辺又は小名木川より近く、数度の津波等により、耕地の荒廃甚だしきため、又悪疫もはやり、村人相謀りて山城の国、伏見なる稲荷の御分霊を此の地に、奉遷して産土神として、災を除き、衣、食、住、福を授け家内安全、出世開運あらゆる産業の大祖神として、御神威高く輝き大島神社と称え、爾来開拓国造営の守護神のご神徳が果しなく拡がり続いて、しかも、如何にご利益或るかを強く物語るもので、崇敬拝厚きも深く受、鎮守様として仰がれたり(境内掲示より)


大島稲荷神社所蔵の文化財

  • 石造燈籠(大正8年在銘)一対(江東区登録文化財)
  • 石造鳥居(明治25年在銘)(江東区登録文化財)
  • 石造狛犬(一対)(江東区登録文化財)
  • 女木塚碑其日庵社中造立(江東区登録文化財)

大島稲荷神社の周辺図