顕松山自性院|中之郷の住民等と共に中之郷出村へ移転
自性院の概要
天台宗寺院の自性院は、顕松山安住寺と号します。自性院は、本所中之郷成就寺内に創建、成就寺10世祐円が中之郷鎮守稲荷社と共に移転、寛文2年 (1662) 五ノ橋(当地)に移転したといいます。
山号 | 顕松山 |
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院号 | 自性院 |
寺号 | 安住寺 |
住所 | 江東区亀戸6-35-23 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
自性院の縁起
自性院は、本所中之郷成就寺内に創建、成就寺10世祐円が中之郷鎮守稲荷社と共に移転、寛文2年 (1662) 五ノ橋(当地)に移転したといいます。
「江東区の民俗城東編」による自性院の縁起
自性院
『城東区史稿』によれば、中之郷成就寺の中にこの寺があり、成就寺一〇世祐円のとき、中之郷の鎮守稲荷社地を移しこの寺も別当寺として移った。寛文二年(一六六二)、その地が横川堀敷の用地となり、稲荷社地寺院とも五之橋に替え地を賜り移転した。延宝八年(一六八〇)に大風雨のため寺が破損し、成就寺の境内に寺を引き移し、元禄五年(一六九二)に五之橋の旧地に社および寺を造立した。 文化一一年(一八一四)に成立した『遊歴雑記』(二編の上四五)によれば、明暦のころ歌舞伎太夫市村竹之丞は若いころから仏学を好み自証院の弟子となり、甥を養子にして太夫職を譲り、市村羽左衛門と名乗り、隠居して自証院に引っ越し、日光御門主の御剃刀を頂戴し、法度し、比叡山に登り、修行し、叡山の安住院の住職となる。武蔵の自証院の師が晩年となり、市村羽左衛門は自証院に移り住み、師没後自証院も相続した。羽左衛門が移り住んだ以降、この寺に帰依する人が多く、この寺の開基と崇め、安住尊師と呼び、この寺を竹之丞寺と呼ぶようになったと伝えている。(「江東区の民俗城東編」より)
自性院所蔵の文化財
- 石造宝篋印塔永享7年在銘(江東区登録文化財)
- 石造燈籠(江東区登録文化財)
- 木造阿弥陀三尊像(江東区登録文化財)
- 初代市村竹之丞寿塔(江東区登録文化財)
- 歴代市村羽左衛門供養塔(江東区登録文化財)
- 観音供養塔宝永6年在銘(江東区登録文化財)
- 水盤八幡楼奉納(江東区登録文化財)
自性院の周辺図