当智山本誓寺|浄土宗触頭、深川本誓寺
本誓寺の概要
浄土宗寺院の本誓寺は当智山重願院と号します。本誓寺は、小田原本誓寺六世の文賀が、幕府より文禄四年(1595)八重洲河岸に寺地を拝顔して創建、太田康資(太田道灌の四代の孫)娘英勝院が開基となったといいます。慶長11年(1606)馬喰町上町へ、天和2年(1682)当地(深川大工町)に移転、元禄12年(1699)には徳川綱吉から寺領30石の御朱印状を拝領、江戸時代の浄土宗触頭の一つであったといいます。明治6年(1873)には江戸崎大念寺より檀林号が移り、昭和元年まで檀林格であったといいます。
山号 | 当智山 |
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院号 | 重願院 |
寺号 | 本誓寺 |
住所 | 江東区清澄3-4-23 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
本誓寺の縁起
本誓寺は、小田原本誓寺六世の文賀が、幕府より文禄四年(1595)八重洲河岸に寺地を拝顔して創建、太田康資(太田道灌の四代の孫)娘英勝院が開基となったといいます。慶長11年(1606)馬喰町上町へ、天和2年(1682)当地(深川大工町)に移転、元禄12年(1699)には徳川綱吉から寺領30石の御朱印状を拝領、江戸時代の浄土宗触頭の一つであったといいます。明治6年(1873)には江戸崎大念寺より檀林号が移り、昭和元年まで檀林格であったといいます。
「江東区の民俗深川編」による本誓寺の縁起
本誓寺
本誓寺の由緒書によれば、文亀元年(1501)酉冏により相模国小田原谷津に創建された。天正一八年(1590)に秀吉の小田原攻めにより、兵火を蒙り、第六世文賀のとき、文禄四年(1595)に幕府より八重洲河岸に寺地を拝顔し、文賀を江戸の本誓寺開山とし、小田原本誓寺の末寺として再建する(小田原には本誓寺は現存する)。
なお、三世吟哲のときに知恩院未となる。慶長一一年(1606)に同地が幕府御用地となったために馬喰町上寺町に移転、寺地五七七三坪を拝領する。堂舎が広かったためか、幕府の御用寺として朝鮮使節の宿泊施設とも使われた。明暦の大火などに遭い、天和二年(1682)、深川大工町(現在地)に移り、元禄一二年(1699)には徳川綱吉より朱印地三〇石(武蔵国足立家在家村)を拝領する。明治六年(1873)に茨城県信太郡江戸崎大念寺の檀林号が本誓寺に移り、昭和元年まで続く。大震災・大空襲に焼失し、昭和三一年に本堂が復興した。本誓寺二世の随願は徳川家康の側室であった英勝院のいとこにあたり、英勝院は馬喰町移転後は本堂・山門の建立に大きく貢献し、開基とされている。英勝院は太田康資(太田道灌の四代の孫)の娘で一三歳のときに徳川氏の侍女となり、お八つと改めて家康の側室となり、元和二年、家康の死の直前に水戸徳川家祖頼房の養母となり、家康の死後は出家し、英勝院と号し、寛永一一年(1634)、鎌倉扇ケ谷に英勝寺を建立し、寛永一九年に亡くなり、その地に葬られたという。
於加知之方は太田新六郎康資の娘で、鎌倉に比丘尼寺を建て英勝寺と号し、寛永一九年に亡くなり、江戸瑞松寺に葬られた(「徳川幕府家譜」)。
旧寮合として、浄澄院・清心院・勝徳院・法雲院・江月院・称名院・齢閑院・常照院・正応院があり、寺門は台湾もしくは韓国のものに類似していたという(「新撰東京名所図会」)。大正一五年(1926)に深川仲大工町の称名院(旧寮舎)を合併した。(江東区の民俗深川編より)
本誓寺所蔵の文化財
- 村田春海墓(東京都指定文化財)
- 石造燈籠 林忠旭奉納寛永寺旧蔵(江東区登録文化財)
- 石造迦楼羅立像(江東区登録文化財)
- 木造阿弥陀如来立像(江東区登録文化財)
- 呂一官墓(江東区登録文化財)
- 仁木三岳墓(江東区登録文化財)
- 村田家墓(江東区登録文化財)
本誓寺の周辺図