不虚山重願寺|千葉邦胤の娘不虚大禅尼が草創
重願寺の概要
浄土宗寺院の重願寺は、不虚山当知院と号します。重願寺は、天正18年(1590)千葉邦胤の娘、不虚大禅尼によって日本橋郡代屋敷に草創、寛永6年(1629)本蓮社願譽是哲上人が開山したといいます。
山号 | 不虚山 |
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院号 | 当知院 |
寺号 | 重願寺 |
住所 | 江東区猿江1-11-15 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
重願寺の縁起
重願寺は、天正18年(1590)千葉邦胤の娘、不虚大禅尼によって日本橋郡代屋敷に草創、寛永6年(1629)本蓮社願譽是哲上人が開山したといいます。
境内掲示による重願寺の縁起
重願寺の山門は、「重願寺開創400年記念平成大復興(平成12年)」の一環として建立されました。
當山では、寺院建築の象徴といえる伝統的な技法を用いた山門の建立を念願していたところ、法相宗 大本山薬師寺・安田暎胤管長のご好意により、薬師寺の「講堂」(教場)に使用されていた由緒ある木材を用材として頂戴することができました。 薬師寺の「講堂」は、寛政7年(1795)に重願寺が創立の地日本橋馬喰町より現在の地・猿江に移転したのと同時期に建立された歴史ある建物で、その用材の樹齢は400年に達します。
建築にあたっては、宮大工牧野重義棟梁(東京足立区在住)にお願いし、約8ヶ月の期間を経て「四脚門形式の山門」が完成。大和の郷にあった歴史ある建物は、牧野棟梁の手によって柱の1本1本に繊細な彫刻がほどこされ、500キロ離れた江戸の地に「山門」として蘇りました。
この山門は當山の寺宝として、檀信徒の皆様、地元の皆様と末永くご護持していきたいと念願しております。(境内掲示より)
江東区の民俗深川編による重願寺の縁起
重願寺
天正一八年(1590)、千葉邦胤の娘不虚大禅尼により、日本橋郡代屋敷に草創され、寛永六年(1629)、普光観智国師(増上寺第一二世)の高弟本蓮社願誉是哲上人により開山され、当知院不虚山重願寺と称した。数度移転し、寛政七年(1795)第一〇世実誉上人のとき御用地となり現在の猿江に移る(「不虚山重願寺」)。(江東区の民俗深川編より)
重願寺所蔵の文化財
- 関根正二墓(江東区登録文化財)
- 新場小安墓(江東区登録文化財)
- 無縁塚供養塔(江東区登録文化財)
関根正二墓
関根正ニは、若くして世を去った天才的な画家です。 明治32年(1899)に福島県西白河郡大沼村(白河市)で、九人兄弟姉妹の第四子二男として生まれました。同40年に関根家は正二だけを残して上京し、正二も翌年上京して猿江に住み、東川小学校に通いました。大正元年(1912)に小学校を卒業すると、近くに住む以東深水の紹介で東京印刷株式会社図案部に勤め、夜は夜間中学に通いました。翌年より、深水の勧めで画を描き始めました。
大正4年(1915)年、16歳の時、第二回ニ科展に「死を思う日」を出品し入選しました。以後、毎年ニ科展で認められ、第五回ニ科展で、「信仰の悲しみ」「姉妹」「自画像」が入選し、樗牛賞を受賞しました。
若手の才能ある画家として、将来を期待されましたが、同8年(1919)6月、肺結核のため、21歳の若さでなくなりました。
現在は、正二の姉の嫁いだ奥田家の墓に埋葬されており、戒名は「覚誉道順信士」です。(境内掲示より)
重願寺の周辺図