十善山密蔵院|徳川家康の招きにより日本橋に創建、御府内八十八ヵ所
密蔵院の概要
真言宗御室派の密蔵院は、十善山蓮花寺と号します。密蔵院は、北条氏直公の帰依を受けていた小田原蓮華寺住職慶誉法印が徳川家康の招きにより、慶長16年(1611)矢之倉に寺地を拝領して創建したといいます。慶誉法印は、王子神社の別当金輪寺住職の申し出を断り、当寺を開創したといいます。正保元年浅草永住町へ移転、明治45年に墓地を当地へ移し、昭和7年に寺自体の移転を終えたといいます。御府内八十八ヵ所霊場41番札所です。
山号 | 十善山 |
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院号 | 密蔵院 |
寺号 | 蓮花寺 |
住所 | 中野区沼袋2-33-4 |
宗派 | 真言宗御室派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
密蔵院の縁起
密蔵院は、北条氏直公の帰依を受けていた小田原蓮華寺住職慶誉法印が徳川家康の招きにより、慶長16年(1611)矢之倉に寺地を拝領して創建したといいます。慶誉法印は、王子神社の別当金輪寺住職の申し出を断り、当寺を開創したといいます。正保元年浅草永住町へ移転、明治45年に墓地を当地へ移し、昭和7年に寺自体の移転を終えたといいます。
御府内寺社備考による密蔵院の縁起
密蔵院
江古田四丁目一、四八九。本尊十一面観音。勝軍山密蔵院蓮花寺と號する。もと眞言宗御室派の院室地であつたが、今は同宗東寺派に屬する。はじめ北條氏直が相模小田原に創建し、勝軍地蔵を安置し祈願所としたのであつた。山號はこれに因由する。北條氏歿落後、慶長十六年に至り、僧慶譽、勝軍地蔵の木像を背負うて江戸に来り、矢之倉に小庵を結んだが、正保元年淺草永住町に移つた。明治四十五年墓地を現在の地に移轉し、昭和七年に至り、寺をも同所に移した。
境内五百坪、墓地六百坪、出目洞白(正徳五年九月十日歿、八十三歳)鍬形蕙斎(文政七年三月二十二日歿、六十四歳)鍬形蕙林(明治四十二年八月十七日歿)千歳米坡(大正七年八月二日歿、六十四歳)の墓がある。(「中野區史」より)
御府内寺社備考による密蔵院の縁起
京都御室御所仁和寺宮末、浅草新寺町
勝軍山密蔵院、境内古跡拝領地九百坪
当院小田原北条氏直公祈願所。慶長十六年於矢之倉方三十間拝領、其後正保元申年於当浅草方三十同寺地拝領仕候。
開山慶誉法印、寛永十三丙子年寂。
本堂。本尊十一面観音座像、丈一尺七寸。大師。十三仏。観音。不動尊。護諸童子経画像、当院十八世光照法印筆一巻。勝軍地蔵画像一幅
半鐘、壱尺壱寸。一口。
鎮守社。愛宕大権現。本地仏勝軍地蔵。勝軍山額字竜斎筆文化三寅午念門類焼仕其後仮立門ニ付掛置不申候。
門前町屋之義は、宝暦四年より寛政六年迫有之候処、依御觸季明取払被仰付候。其後は無之。
以上乙酉書上
当院開山慶誉ハ相州小田原蓮華寺住持シ、北条氏直公ニ親ミ深ク御祈祷等相勤候二付、氏直没落之後東照宮様慶誉を被召出氏直公之御生質平生之行跡本意等御尋有之、其由緒を以慶誉を王子権現別当金輪寺住職社例ヲ改可修神法旨蒙御上意候得共、極老たる故恐多も辞退中上、弟子宥雄ヲ金輪寺住職ニ奉願候。依て慶誉ニは御当地於矢ノ蔵、寺地三拾間四方慶長十六年拝領仕候。尚北条家より伝ル所之愛宕権現ヲ境内二安置シ可為鎮守旨蒙
御上意則、勝軍山蓮華寺密蔵院と称号開基仕候。依之鎮護国家御武運長久之御祈祷長日護摩供等奉修行候。
大猷院様御代正保元申年地所替被仰付、於当浅草寺地三十間四方拝領仕候もとハ護摩堂ありて愛宕と合殿なりしか再建ならす。愛宕ハ本堂に安す。護摩堂本尊不動ハ弘法大師作にて空海としるし手判ありしと云。文化三年焼失す。勝軍地蔵縁起もありしか、明暦火災に焼失せりと云伝ふ。
北条氏より伝ふる愛宕神体ハ、今芝愛宕社ト安る所是なり。其本地仏ハ当寺に安すなと云伝ふれと、古火災の時記録皆焼失して其由来詳ならすといふ。以上捜索(御府内寺社備考より)
密蔵院の周辺図