曹渓山青原寺。龍野藩脇坂家の菩提寺、明治42年北青山より移転
青原寺の概要
曹洞宗寺院の青原寺は、曹渓山と号します。青原寺は、芝青松寺初世雲岡舜徳禅師(太田道灌の師)が永正5年(1508)開創、万冶年間(1658-1660)青山信濃守が中興開基、江戸時代には龍野藩脇坂家の菩提寺となっていたといいます。明治42年(1909)北青山より当地へ移転しました。
山号 | 曹渓山 |
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院号 | - |
寺号 | 青原寺 |
住所 | 中野区上高田1-2-3 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
青原寺の縁起
青原寺は、芝青松寺初世雲岡舜徳禅師(太田道灌の師)が永正5年(1508)開創、万冶年間(1658-1660)青山信濃守が中興開基、江戸時代には龍野藩脇坂家の菩提寺となっていたといいます。明治42年(1909)北青山より当地へ移転しました。
東京名所図会による青原寺の縁起
青原寺
青原寺は。青山北町四丁目一番地に在り。其の門は素木造りにして。曹渓山の扁額を掲け。曹洞婦人教會の標札を貼す。門内左に鐘楼あり。本堂は瓦葺にて。其の正面に魏立す。群鳩谷谷の聲常に絶えず。當寺は永正五年雲岡舜徳禅師(太田道灌の師)の創開せし所にして。萬冶年間青山信濃守(青山大膳亮の分家にて。五千石を領し築地に住す)中興開基たり。元禄年間に至り。脇坂中務少輔(播磨國龍野の藩主にて。赤穂城受取の正使を勤めし人なり。)の香華院となる。山號はもと繁國山といひしが。文政年間大本山永平寺より曹渓山の扁額を送與せられしを以て之を改稱せり。當寺の古書舊記は。延享二年二月十二日(朝五ッ時過千駄谷より出火)の火災に罹り焼失せしに因り。其の詳細なる事實を知ること能はずといふ。惜むべし。
梵鐘
舊来のものは慶應の末年之を斥賣したるを以て。明治二十年京都府下愛宕郡雲母坂の雲母寺より。梵鐘及び其の堂を併買し。同二十一年四月ここに改築し。舊銘を存して新銘を彫刻せり。其の文左の如し。(銘文省略)
墳墓。
墓域を徘徊せし中余注目を惹きし墳墓を擧れば左の如し。
青原院殿梅閨宗白大姉墓萬冶四辛丑年二月二十日
妙珠婦人平沼氏墓享和元年
脇坂一角安利墓寒松院殿堅岩了固大居士原文三戊午歳十二月十六日
首藤金距墓安昌院幽岳遥舟居士天明四年十二月十八日
故法眼侍醫長松柴田先生墓名為字子温文花六年十一月二十四日
故法眼侍醫鞠翁柴田先生名直發字可人嘉永二年
龍野藩侍醫唐澤光徳墓明治七年
二世陽秋庵桃瑞墓 痩うてに重たきふての夏書かな
朱楽菅江の墓。(東京名所図会より)
「中野区寺院案内」による青原寺の縁起
本山は太田道灌の師であり、芝青松寺の開山者でもある雲岡瞬徳禅師の開創になる。享保7年2月9日、播磨龍野城主・脇坂中務少輔安清の香華院となる。
所在地は元赤坂青山北町(現・青山電話局)にあったが、明治42年現在の地へ(境内地1000坪、墓地1000坪)へ移転し、同44年これを完了した。
昭和20年5月第二大戦の空襲にて焼失したが、同23年40坪の仮本堂を建立する。
昭和46年3月には鉄筋コンクリートの現本堂及ぴ、事裡が完成、復興した。
墓地には、寛政年間に狂歌師として有名な朱楽菅公の墓がある。(「中野区寺院案内」より)
青原寺の周辺図
参考資料
- 「中野区寺院案内」(中野区佛教連合会)
- 東京名所図会