原市愛宕神社。上尾市原市の神社
原市愛宕神社の概要
原市愛宕神社は、上尾市原市にある神社です。原市愛宕神社は、観音堂(観音寺)が祀られていた当地に慶長3年(1598)に創建したといいます。明治維新後の神仏分離に際し、観音堂(観音寺)は宝蔵寺へ遷され、当社は明治6年村社に列格しています。
社号 | 愛宕神社 |
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祭神 | 軻遇突知命、勝軍地蔵 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 8月1日 |
住所 | 上尾市大字原市3532 |
備考 | - |
原市愛宕神社の由緒
原市愛宕神社は、観音堂(観音寺)が祀られていた当地に慶長3年(1598)に創建したといいます。明治維新後の神仏分離に際し、観音堂(観音寺)は宝蔵寺へ遷され、当社は明治6年村社に列格しています。
境内掲示による原市愛宕神社の由緒
当神社は、慶長三年(一五九八年江戸時代初期)の創建となっています。全国に御分社八〇〇余社を有し、防火・火伏せの神として強い信仰を集め崇敬されている。「愛宕さん」の総本宮は、京都市右京区嵯峨愛宕町の愛宕山の山頂に鎮座し、京都に都があった明治以前には、東は比叡山、西派愛宕山が王城守護の神とされていた。
江戸城の場合は、東が東叡山寛永寺であり、西派京都の愛宕山を勧請した愛宕山が幕府守護の神とされた。
原市は、古くは吉野領原村に属し、地内の通り(県道大宮菖蒲線)に市が立ったころにより町並が形成され、この地名が生じた。
当社は、この古い町並から東へ二〇〇メートルほどの「観音山」と称する小高い丘の上に鎮座している。かつて観音山には、牛馬に疫病が流行した際、当地の人々によって祀られた観音寺があった。同寺は現在の当社の境内の辺りにあったといい、「観音山」の名称も、同寺に由来するという。神仏分離後、観音寺は宝蔵寺境内に移され、当社は明治六年四月に愛宕神社となる。
当社の本殿内には、厨子に文政二年(一八一九年)銘のある勝軍地蔵像が安置されている。(境内掲示より)
新編武蔵風土記稿による原市愛宕神社の由緒
(原市村)
愛宕社
村の鎮守なり、寶蔵寺の持。(新編武蔵風土記稿より)
「上尾の神社・寺院」による原市愛宕神社の由緒
慶長年間の創始であるが以後不詳(「愛宕神社伝承」)(「上尾の神社・寺院」より)
「埼玉の神社」による原市愛宕神社の由緒
愛宕神社<上尾市原市三五八〇(原市字十八耕地)>
原市は、古くは吉野領原村に属し、地内の通り(県道大宮菖蒲線)に市が立ったことにより町並みが形成され、この地名が生じた。
当社は、この古い町並みから東へ二〇〇メートルほどの「観音山」と称する小高い丘の上に鎮座している。
社伝によると、創建は慶長の役(一五九八)の後であるという。
『風土記稿』には「愛宕社 村の鎮守なり 宝蔵寺の持」とある。これに見える宝蔵寺は、山城国(京都府)真言宗醍醐無量寿院末で、医王山と号し、開山の成賢は嘉暦二年(一三二七)に寂している。同寺は古い町並みの東端に、当社と向かい合って位置している。往時、当社との間には一面に水田が広がっており、寺の境内からは当社を拝むことができたという。当地は、京都へ通じる中山道の脇往還が通る要所であり、当社の創建も、京都市右京区嵯峨愛宕山上の愛宕神社の分霊を、本社の形式に倣って高台に祀ったものであろう。
かつて観音山には、牛馬に疫病が流行した際、当地の人々によって祀られた宝蔵寺門徒の観音寺があった。同時は現在の当社の境内の辺りにあったといい、「観音山」の名称も、同寺に由来するという。
神仏分離後、観音寺は宝蔵寺境内に移され、当社は、明治六年四月に村社に列した。当社の本殿内には、厨子に文政二年(一八一九)銘のある勝軍地蔵像が安置されている。(「埼玉の神社」より)
原市愛宕神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「上尾の神社・寺院」(上尾市教育委員会)
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)