氷川鍬神社。櫃に納められていた小鍬二挺を神体として創祀、上尾宿総鎮守
氷川鍬神社の概要
氷川鍬神社は、上尾市宮本にある神社です。氷川鍬神社は、寛永8年(1631)十二月二十五日、桶川宿の方から童子らが櫃を上尾宿に引いて来て歌い踊り、更に江戸まで送ったものの、年末には当宿に戻り、正月になって櫃を開けると、中に違い形に結び付けてある小鍬二挺が納めてあったことから、これを鍬太神宮として祀り、上尾宿総鎮守としたといいます。明治41年、二ツ宮氷川神社の女体社と、上尾宿字南本村の八幡社・字浅間の浅間社を合祀、氷川鍬神社と改称、村社に列格したといいます。
社号 | 氷川鍬神社 |
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祭神 | 豊鍬入姫命・稲田姫命・菅原道實公・木花之開耶姫命・應神天皇 |
相殿 | - |
境内社 | 浅間社 |
祭日 | 7月15日 |
住所 | 上尾市宮本1-14 |
備考 | - |
氷川鍬神社の由緒
氷川鍬神社は、寛永8年(1631)十二月二十五日、桶川宿の方から童子らが櫃を上尾宿に引いて来て歌い踊り、更に江戸まで送ったものの、年末には当宿に戻り、正月になって櫃を開けると、中に違い形に結び付けてある小鍬二挺が納めてあったことから、これを鍬太神宮として祀り、上尾宿総鎮守としたといいます。明治41年、二ツ宮氷川神社の女体社と、上尾宿字南本村の八幡社・字浅間の浅間社を合祀、氷川鍬神社と改称、村社に列格したといいます。
新編武蔵風土記稿による氷川鍬神社の由緒
(上尾宿)
太神宮
宿内の鎮守なり、神體は小鍬二挺あり、御鍬太神宮と唱ふ、其故は満治の頃いづくよりか鍬祭りと唱へ、鍬二挺を打違ひに結び、白幣をさし、車に載せて引来しを土地の童子等よりつどひ、囃子あるき當宿に至りしが、其後誰とて持行べきものなく、今の本陣約宮内が庭にをきしを、ここに勧請し、彼鍬を神體とせし故に御鍬の名ありといひ傳ひ、則本陣役宮内の持なり。
天神社
前社の境内にはあれど末社にはあらず、此村に住める山崎武内碩茂といへるもの、天明八年朱文公を相殿とし、二賢堂と號す、義學のさまになぞらへ農民の子弟を教へはげませり、然りしより釋尊の意にて、毎年冬至に祭義など行へり、彼武平次は郷士にして、世々免除の田地もありと云、持同じ。 (新編武蔵風土記稿より)
「上尾の神社・寺院」による氷川鍬神社の由緒
「新編武蔵風土記稿」に、「大神宮宿内の鎮守なり、神体は小鍬二挺あり、御鍬大神宮と唱ふ、其故は万沿の項いつくよりか鍬祭りと唱え鍬二挺を打違ひに結ひ白幣をさし車に載せて引来りしを(中略)彼鍬を神体とせし故に御鍬の名あり」云々と記す。近代に至り二ツ宮氷川神社(男体、女体があった)の内一社を勧請して併せ祭って、氷川鍬神社と称した。昭和32年を創建350年とする。(「上尾の神社・寺院」より)
「埼玉の神社」による氷川鍬神社の由緒
氷川鍬神社<上尾市宮本一-一四(上尾宿字仲宿)>
創建は貞享元年(一六八四)の「鍬太神略由来」によると、寛永八年(一六三一)十二月二十五日、桶川宿の方から童子らが台車に櫃を載せて上尾宿に引いて来て歌い踊り、更に江戸まで送ったが、十二月三十一日当宿に戻され、本陣前で台車は動かなくなった。このため、上尾宿の者が正月になって櫃を開けると、中に違い形に結び付けてある小鍬二挺と藁苞が入っており、藁苞を開くと稲穂十余茎があった。そこで社を建立し小鍬二挺を祀り、稲穂を供えたと伝える。神体の鍬は五穀守護の豊鍬入姫命で、稲穂は御子稲と称して播いて種を増やし庶人に分けるという。ちなみにこの創建由来は、現在社頭で授与する小絵馬に再現されている。
『風土記稿』には、鍬太神宮を本陣役の宮内の庭に祀ったことから以来当社は宮内持ちの社となった旨が記されている。
当社境内の二賢堂碑や雲室上人生祠碑によると、天明八年(一七八八)上尾宿山崎武平次は、儒者雲室らを江戸から招き宿内に郷学聚正義塾を開設、学舎には朱子と菅原道真を祀り、林大学頭信徴筆の二賢堂の額を掲げ、近郷子弟の学問所としたことが記されている。
明治四十一年、上尾三か村(上尾宿・上尾村・上尾下村)の鎮守である二ツ宮の氷川神社の女体社と、上尾宿字南本村の八幡社、字浅間の浅間社を合祀し、鍬太神社から現社名に改称した。(「埼玉の神社」より)
境内掲示による氷川鍬神社の由緒
氷川鍬神社は、「武蔵国足立郡御鍬太神宮畧来」によると百九代明正天皇の御代、寛永九年(一六三二)の御創立と伝えられます。
御祭神は豊鍬入姫命・稲田姫命・菅原道實公・木花之開耶姫命・應神天皇の神で豊鍬入姫命は悩める人苦しむ人の胸中を知りその人のため救いの手をさしのべてくださる神であり、疫病除け、招福、豊作の神であります。
稲田姫命は須佐之男命の御妃で限りない慈しみと深い母性の愛を表わされる神であり、菅原道實公は学問の神として、木花之開耶姫命は浅間さまの神さまで、大山祇神という尊い神さまの御子神さまです。應神天皇は文化神としてのご神徳を持っておられます。
氷川鍬神社は上尾宿総鎮守として広く世人の崇敬を集めた古社であり、通稱「お鍬さま」と呼ばれております。
氷川鍬神社の名稱になったのは明治四十一年(一九〇八)の神社合祀以後のことで、それより以前は「鍬大神宮」という社名であった。(境内掲示より)
氷川鍬神社所蔵の文化財
- 上尾郷二賢堂跡(上尾市指定史跡)
上尾郷二賢堂跡
二賢堂は、上尾宿に住んでいた山崎武平治碩茂が、地元の有志とともに江戸の学僧雲室打上人を招き、天明八(1768)年に建てた郷学「聚正義塾」の学舎の名称である。
雲室は、当時親交のあった江戸の朱子学者、林大学頭信敬らと相談し、中国・南宋の朱文公(朱子)と、学問の神様と言われる菅原道真の二人の賢人を祀る意味で「二賢堂」と名付けた。
雲室が上尾宿で開塾したのは、学友の石井永貞と、その門人の上尾宿の山崎武平治碩茂による強い勧めがあったためである。
聚正義塾の学舎は碩茂を主として、上尾宿や近隣の村の人々の資金と労力によって建てられた。これは私塾ではなく郷学の性格を持っていた。雲室は4年ほどで上尾を去るが、宿は碩茂が引き継ぎ、死後も続いたと言われる。
現在、氷川鍬神社には、林大学頭によって書かれた「二賢堂」の扁額と、二賢堂の由緒が刻まれた「上尾郷二賢堂碑記」、雲室上人について刻まれた「雲室上人生祠碑頌」が残されている。(上尾市教育委員会掲示より)
氷川鍬神社と上尾宿
氷川鍬神社は上尾宿の総鎮守とされ、江戸時代には鍬大神宮や太神宮と呼ばれた。
神社の創始は、童子が警護する御神体の入った櫃を、中山道の街道筋の人々が「鍬踊り」を踊りながら宿場から宿場へ送り継ぎ、最終的に上尾宿に鎮座したので祀ったという伝承がある。天明八年には、神社の境内に聚正義塾が建てられ、上尾宿の人々の教育機関として多くの人々が出入りした。また、当時の絵図には、神社の周辺に本陣・脇本陣や問屋場など、宿の主要な施設が集中しており、この辺りが宿の中心地だったことが分かる。
江戸時代に宿場として整備された上尾宿は、明治時代になると高崎線や馬車の整備によってさらに繁栄した。神社は、明治四一(1908)年の神社合祀で、二ツ宮の氷川神社のうち女体社を合祀し、氷川鍬神社となった。
このように賑わいを見せた上尾であったが、宿の大半の建物や記録は、江戸時代末から明治初頭にかけて起こった3回の大火や老朽化によって失われた。しかし、今でも当時の名残を見出すことができる。屋根の上の鐘馗様は、大火の際に屋根に鐘馗様のあった3~4軒の家が火事を免れたため、その後火伏として流行したと言われる。また、通り向かいの家の鬼瓦が、自分の家の方向を向いていると良くないため、鬼より強い鐘馗様を載せたともいわれている。上尾宿内の呼称である上宿、中宿、下宿は、後に上町、仲町、下町となり、この町名や地区割りは、上町はそのまま、仲町は仲町と宮本町に、下町は愛宕として今でも残されている。(上尾市教育委員会掲示より)
氷川鍬神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「上尾の神社・寺院」(上尾市教育委員会)
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)