二ツ宮氷川神社。男体社と女体社を祀っていたことから二ツ宮
二ツ宮氷川神社の概要
二ツ宮氷川神社は、上尾市二ツ宮にある神社です。二ツ宮氷川神社の創建年代等は不詳ながら、鎌倉街道に面していることから、上尾が成立した頃・中世の創建ではないかといい、上尾三ヶ村(上尾宿・上尾村・上尾下村)の鎮守社だったといい、かつての一宮氷川神社の祭祀形態と同じく、男体社と女体社を祀っていたことから当地名は二ツ宮と呼ばれるようになったといいます。明治6年には村社に列格、明治42年には女体社を氷川鍬神社へ合祀、男体社のみを祀るようになったといいます。
社号 | 氷川神社 |
---|---|
祭神 | 素戔嗚尊、稲田姫命、大国主命 |
合祀 | 天神、神明社、山王社、稲荷社、古峯社、金比羅、牛頭天王 |
摂社 | 豊稔社、豊受姫命、大年神、御年神 |
祭日 | 7月15日 |
住所 | 上尾市二ツ宮1-14 |
備考 | - |
二ツ宮氷川神社の由緒
二ツ宮氷川神社の創建年代等は不詳ながら、鎌倉街道に面していることから、上尾が成立した頃・中世の創建ではないかといい、上尾三ヶ村(上尾宿・上尾村・上尾下村)の鎮守社だったといい、かつての一宮氷川神社の祭祀形態と同じく、男体社と女体社を祀っていたことから当地名は二ツ宮と呼ばれるようになったといいます。明治6年には村社に列格、明治42年には女体社を氷川鍬神社へ合祀、男体社のみを祀るようになったといいます。
新編武蔵風土記稿による二ツ宮氷川神社の由緒
(上尾村)
氷川社
上尾三ヶ村の鎮守なり、男體女體の兩社にて、間に道をへだてならびたてり、村内遍照院の持
神明社
観音坊の持
稲荷社二
一は観音坊の持、一は光勝院の持。 (新編武蔵風土記稿より)
「上尾の神社・寺院」による二ツ宮氷川神社の由緒
「新編武蔵風土記稿」には「上尾三ヶ村ノ鎮守ナリ、男体女体ノ両社ニテ間ニ道ヲヘタテナラヒタテリ」とある。ここから地名「二ツ宮」もおこり、さらに「氷川前」の地名もあることから、起原の古いことが察せられる。明治40年(1907)に女体社の方は鍬神社に合祀、また天神、稲荷(2)、厳島の4社が、翌41年には他の稲荷神社も当社に合祀。(「上尾の神社・寺院」より)
「埼玉の神社」による二ツ宮氷川神社の由緒
二ツ宮氷川神社<上尾市上尾村八七四(上尾村字二ツ宮前)>
上尾は既に戦国期に郷村名として見え、元亀・天正のころ(一五七〇-九二)のものと推定される旦那引付注文写(熊野那智大社文書)に「足立郷あけをの郷原宿」と記されている。原宿は現原市の旧名称であることから、中世の上尾郷は近世の上尾宿・上尾村・上尾下村から原市辺りまでを含む一帯と推定される。
当社の鎮座地はこの辺りでは一番の高台で、かつての上尾三か村の中心地にあり、小字名を二ツ宮という。かつて境内に湧水池があり、ここでしばしば雨乞いが行われた。また、往時境内の南東側には鎌倉街道が通っていた。芝川に架かる鎌倉橋がその街道の名残である。
その創建は、当地一帯を上尾郷と称していた中世にまでさかのぼることが推測され、『風土記稿』上尾村の項には「氷川社 上尾三か村の鎮守なり、男体女体の両社にて、間に道をへだててならびたてり、村内遍照院の持」と記されている。これに見えるように、当社は元来男体・女体の両社からなり、小字名二ツ宮の由来ともなった。当時は、現在地に男体社があり、鎌倉街道を隔てて南東に三〇〇メートルほどの所に女体社があった。これは、現在の三井金属グラウンドの北西側の一角に当たる。また、別当の遍照院は、開山の阿順法印が応永九年(一四〇二)に寂したと伝える真言宗の古刹である。
明治初年の神仏分離を経て、男体・女体の両社は、いずれも氷川社と称し、明治六年に村社に列した。しかし、明治四十二年に女体社を継承した氷川社の方が隣村の上尾宿の鍬神社に合祀される事態となった。これは、当時無格社であった鍬神社を村社にするために、有力者の声掛かりにより進められたもので、当地の大多数が反対する中を強行され、氷川社の神体(御幣)は鍬神社に納められ、社殿は上尾下村の愛宕社の本殿として移築されてしまった。こうして鍬神社は社名を氷川鍬神社に改め、村社に列した。一方、当地では男体社を継承した氷川社が一社だけとなり、一宮の氷川神社に倣った古くからの祭祀形態は変容を余儀なくされたのである。
当社の『明細帳』によると、いつのころか字二ツ宮の神明社と末社八雲社・稲荷社が合祀され、明治四十年には上尾下字上原の無格社天神社、字下原の無格社稲荷社、字榎戸の無格社稲荷社・厳島社、翌四十一年には上尾村字北本村の無格社稲荷社がいずれも合祀された。
一間社流造りの本殿は、造営の年代は明らかでないが、尾根に葺いた銅板の裏に文化六年(一八〇九)の年号が見える。壁面の細部に渡り施されている見事な彫刻は、市の指定文化財となっている。泥鏝細工師の名人伊豆の長八が、伊豆の三島大社の造営にあたり、当社の彫刻を下見に来たという逸話がある。(「埼玉の神社」より)
二ツ宮氷川神社所蔵の文化財
- 氷川神社本殿彫刻(上尾市指定有形文化財)
氷川神社本殿彫刻
この氷川神社は、旧上尾村字二ツ宮に所在する。この小字名の起こりは、氷川神社に男体社と女体社の二つの宮があったことによる。かつては上尾の名をもつ三つの宿村(上尾宿・上尾村・上尾下村)の鎮守社であった。明治四一、二年の神社合祀の時、女体社は上尾宿の鍬社を合祀し、(このため氷川鍬神社と称されるようになった)、現在は男体社が本殿として残っている(合祀したあとの女体社のあき宮は、後に愛宕神社の本殿として譲られた)。
現在の氷川神社の本殿には四面にすぐれた彫刻がなされている。図がらは中国の故事を現わしたもので、最近の修理によって整ったものとなった。軒下の組子(枓栱)の間にも彫刻が施され、本殿を支える下部の肘木はすべて透かし彫りされりっぱである。製作の時期・作者は不詳である。(上尾市教育委員会掲示より)
二ツ宮氷川神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「上尾の神社・寺院」(上尾市教育委員会)
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)