平方観音堂、旧正覚寺。圓通堂
正覚寺の概要
天台宗寺院の正覚寺は、威徳山寶聚院と号していた寺院で、現在は平方観音堂と称されています。正覚寺の創建年代等は不詳ながら、新編武蔵風土記稿に「天台宗、別所村福正寺末、威徳山寶聚院と號す、本尊不動を安置す」と記載されています。明治6年廃寺となり、観音堂となっています。
山号 | 威徳山 |
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院号 | 寶聚院 |
寺号 | 正覚寺 |
本尊 | 観世音像 |
住所 | 上尾市平方530-1 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
正覚寺の縁起
正覚寺の創建年代等は不詳ながら、新編武蔵風土記稿に「天台宗、別所村福正寺末、威徳山寶聚院と號す、本尊不動を安置す」と記載されています。明治6年廃寺となり、観音堂となっています。
新編武蔵風土記稿による正覚寺の縁起
(平方村)正覺寺
天台宗、別所村福正寺末、威徳山寶聚院と號す、本尊不動を安置す。(新編武蔵風土記稿より)
「上尾の神社・寺院」による正覚寺の縁起
掲載なし(「上尾の神社・寺院」より)
正覚寺所蔵の文化財
- 森朴斎碑と墓(上尾市指定史跡)
森朴斎碑と墓
森朴斎は桑名藩(三重県)の医師で、名は彰、弘化年中(1844~48)に平方村に立ち寄り、名主の永島太十郎(太重郎)宅に寄留した。朴斎の学識を見込んだ太十郎は屋敷内に学舎を建て、地域の若者を集めた。十数年にわたり300余人が彼の人柄を慕い学んだが、万延元(1860)年五月一二日54歳で没し、正覚寺(現観音堂)墓地に葬られた。
指定の碑は高さ127cmで、正面上部に「森朴斎翁碑銘」とあり、戸井田広が撰文し、永島氏や門下生等により建立されたといわれる。
碑文によれば、朴斎のほか「喜良久」「独立庵」の二つの号を持っていたとされる。俳諧を嗜み、身なりに頓着しない生活ぶりから朴斎の号をとったとある。碑陰に「蓮のミの 飛離たる 別れかな」の句が刻まれており、朴斎の辞世の句とされる。万延元年五月一三日付けで筆子中によって建てられた「真誉朴斎浄證居士」とある墓も境内に残されており、碑と共に文化財に指定されている。(上尾市教育委員会掲示より)
正覚寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「上尾の神社・寺院」(上尾市教育委員会)