干菜山十連寺。徳川家康命名の山号寺号
十連寺の概要
浄土宗寺院の十連寺は、干菜山光明院と号します。十連寺は、応永元年(1394)に念誉上人(応永12年1405年寂)が小庵を創建、慶長10年(1605)に徳川家康が当庵に立ち寄り、山号寺号命名の上、寺領16石8斗の御朱印状を与え、家康の家臣柴田七九郎康忠、康長が一寺として整備したといいます。
山号 | 干菜山 |
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院号 | 光明院 |
寺号 | 十連寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 上尾市今泉156 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
十連寺の縁起
十連寺は、応永元年(1394)に念誉上人(応永12年1405年寂)が小庵を創建、慶長10年(1605)に徳川家康が当庵に立ち寄り、山号寺号命名の上、寺領16石8斗の御朱印状を与え、家康の家臣柴田七九郎康忠、康長が一寺として整備したといいます。
新編武蔵風土記稿による十連寺の縁起
(今泉村)十連寺
干菜山光明院と號す、浄土宗、鴻巣勝願寺末、本尊彌陀を安ず、この外堂中に長一寸八分、閻魔王自作の像を安せり、又攝州清澄寺慈信坊尊惠といへる僧、承安年中迷途に趣き、蘇生して著述せしと云一軸を當寺に蔵せり、彼閻魔の像も其時もらひし由、かつ八句の文を作り、四句は彼地に止め、四句は像と同じくもらひし由、其文妻子王位財眷属、死去無一来相親、常随業鬼繁縛我、受苦叫喚無邊際とあり、その外佛道利益のことを記せり、しかのみならず彼一軸正しき承安のものに非ず、後の代より書しさまなり、もとより信ずべきことには非れども、姑く其あらましを記し、その侘のことはもらせり、開山は念譽上人應永十二年九月朔日示寂す、縁起によるに慶長十八年十月、東照宮御鷹狩の折ふしこの邊へかからせ給ひ、同月廿一日の亥刻に至り、南の方に當りて奇怪の光あり、東照宮遥に御覧ありて、柴田七九郎に命ぜられ、是を見せしめ給ひしに、一宇の小庵あり、庵の内異香馥郁として光明輝けり、因て堂内を開き見るに、二つの厨子のみあるよし言上す、あくる日彼地成らせられ、ことのよし住僧に御尋ありければ、閻魔法王及び地蔵菩薩の像なりと、御答申上げれば、尊きこととの命にて、傍を御覧ありけるに、堂の軒に菜を掛け干したるあり、しかも其數十聯ありければ、干菜山光明院十連寺と號すべしと命ぜられ、則十六石八斗餘の御朱印を賜はり、柴田七九郎に命ぜられて一寺となさしむと、此十連寺のことは信じがたし、他にも同じさまのことあり、太閤秀吉一年遊獵のをり、草庵に立よられしに寺號もあらざる庵なりしが、をりしも野僧大根の葉を軒に掛て干をきしを見られ、此庵を今日より干菜寺と菜づくべしと申されしとものにしるせり、又或書に干菜寺は洛陽の東河原にあり、元は光福寺と號せしを、天正年中今の名に改めしと是等の説を混じ傳へしにや、又偶然なりや、柴田父子の廟所今寺中にありて、柴田氏をもて開基とせりと、因て考るに彼念譽上人應永年中この道場を開き、慶長の頃まで尚小庵の如にてありしが、その後御朱印を賜ひ、始て一寺となりしことしらる、且東照宮御筆ならびに、慶安年中賜はりし殺生禁斷札の本紙は、今本寺に置り、其文左の如し、
来札披見本望候、殊ニ蜜柑送給給祝着之至候、我等此間しはく気にてむさむさと在之事に候、何様面上之節旁可申承候、恐々謹言。
二月晦日
家康 御花押
禁制 十連寺
一殺生禁斷之事
一竹木恣不可伐取事
一萬端ニ付不可狼藉事
右之條々於違犯者、速可被處嚴科者也、仍下知如件、
慶安二年己丑十一月十七日
鐘楼。慶徳三年の古鐘なりしが、大永の比破損し、遥の後寛文十一年に至り、中興寛譽再び鑄造すといふ。
閻魔堂。この閻魔は前立にて、本體の閻魔は則一寸八分にして、本寺に預け置り、本地地蔵の像をばここに安せり。
稲荷社、辨天社。二社共に境内の鎮守なり。
金毘羅社、阿彌陀堂。この堂元氷川別當西福寺境内にありしが、西福寺廢してより當寺の境内に移せしなり、元の堂地は堂屋舗と云、今は皆畑也。(新編武蔵風土記稿より)
「上尾の神社・寺院」による十連寺の縁起
十連寺は応永元年(1394)に念誉上人によって起立されたと伝えられるが、当初は小庵であり、正式な寺名はなかった。慶長18年(1613)徳川家康が鷹狩の道中この小庵に立寄り、于菜山光明院十連寺と名付けたといわれる。慶長年間以降、家康の家臣柴田七九郎康長を開基として寺格を整えたのであろう。(「上尾の神社・寺院」より)
埼玉県・上尾市掲示による十連寺の縁起
十連寺は、干菜山光明院を号する浄土宗の寺である。この寺は、応永年中(一三九四~一四二八)に念誉上人により開山されたが、名前もない小さな庵であったものを徳川家康が命名したといわれる。
慶長一八年(一六一三)十月頃、鷹狩りの道中にこの寺で休息した家康が寺名を尋ねたのに対して、寺僧が「小庵にて名前もありません。」と答えた。それを聞いた家康が「自分が名前を付けてやろう。」といって、本堂の軒端にたくさんの菜が干してあるのを見て、即座に「干菜山十連寺」と付けたと伝えられている。
片田舎の風情と十遍のお念仏の浄土宗の教えを巧みに取り入れた寺名である。
この話は、江戸幕府が家康の事歴を集大成した「徳川実紀」や江戸で流布していた世間話を収録した「甲子夜話」に家康の当意即妙さを示すエピソードとして記録されている。
なお、寺には「慶安の禁札」、「十連寺板石塔婆」、「柴田七九郎父子の墓」があり、市指定文化財になっている。(埼玉県・上尾市掲示より)
十連寺所蔵の文化財
- 慶安の禁札(慶安2年)(市指定文化財)
- 板石塔婆(市指定文化財)
- 柴田七九郎康忠、康長の墓(市指定文化財)
慶安の禁札
禁札とは、庶民に禁制を告知するため、鎌倉時代から江戸時代にかけて出された立て札である。高く掲げられたことから高札とも呼ばれる。十連寺に所蔵される禁札は、慶安二(1649)年一一月一七日の日付があり、江戸時代初期の禁札の姿を伝える貴重なものである。この禁札を見ると、1行目に「禁制」と表題があり、その下に宛所である「十連寺」とある。2行目からは禁制の部分となり、「殺生」「竹木伐採」「狼藉」の禁止と、これに違反したときは厳科に処すると記されているが、発令者名は不明である。 十連寺には、慶安二年八月二四日、3代将軍・家光から寺領16石8戸余の朱印状が出されている。禁制がその直後に出されていることは、当時の十連寺が幕府によって保護されていたことを示すと考えられ貴重な資料である。(上尾市教育委員会掲示より)
十連寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「上尾の神社・寺院」(上尾市教育委員会)