中分大悲庵。足立新秩父三十四ヶ所霊場
中分大悲庵の概要
曹洞宗寺院の中分大悲庵は、上尾市中分にある庵室です。中分大悲庵の創建年代等は不詳ながら、中分村の三沢常次郎先代善右エ門が寛文年間(1661-1673)に建立したといいます。足立新秩父三十四ヶ所霊場33番です。
山号 | - |
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院号 | - |
寺号 | 大悲庵 |
住所 | 上尾市中分2-276 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
中分大悲庵の縁起
中分大悲庵の創建年代等は不詳ながら、中分村の三沢常次郎先代善右エ門が寛文年間(1661-1673)に建立したといいます。
新編武蔵風土記稿による中分大悲庵の縁起
(中分村)
該当記載なし(新編武蔵風土記稿より)
「上尾の神社・寺院」による中分大悲庵の縁起
該当記載なし(「上尾の神社・寺院」より)
「上尾市史別編2」による中分大悲庵の縁起
大悲庵(中分)
埼玉縣下下武蔵國北足立郡中分村字下耕地
(昭和十七年三月三十一日北足立郡大石村大字中分曹洞宗東栄寺へ所属認可)
曹洞宗大悲庵
一本尊 観世音菩薩
一由緒 詳ナラズト雖ドモ里人ノ傳フル所ニヨレバ本村三沢常次郎先代善右エ門ナルモノ寛文年中建立セシモノナリト云
一本堂 間口五間奥行弐間半
一境内 百六拾五坪 民有地第一種三沢常次郎外六十人持
一境外所有地 [略]
一信徒 拾人
一管轄廳迄 五里貮町(「上尾市史別編2」よより)
中分大悲庵所蔵の文化財
- 月待供養塔(上尾市指定有形文化財)
- 下遺跡(上尾市指定有形文化財)
月待供養塔
大悲庵の月待供養塔は高さ132cm、幅42cm、上部左右に日と月が、中央に天蓋が刻まれており、その下には阿弥陀如来を表す「キリーク」、脇侍の観音菩薩を表す「サ」、勢至菩薩を表す「サク」という梵字が彫ってある。さらに、その下には、前机と三具足(花瓶、香炉、燭台)を備えている。「月待供養」「文明十四年三月廿さん日」(1482年)の銘があり、二十三夜の月待供養塔であることが分かる。また、二条線の刻みが浅く、室町時代の特徴を表している。なお、紀年銘の両側には偈(仏教の教えや徳を表したもの)と、その下部に「道林禅門」「九郎太郎」などの法名・俗名を刻み、結衆板碑であることが分かる。
月は勢至菩薩が形を変えたものとする説があり、勢至菩薩の由縁日は23日とされている。ここから、講中が集まって身を慎み、月の出を待ち礼拝を行うという、二十三夜の月待が室町時代以降仏家で盛んに行われるようになった。その供養のしるしとして、月待供養塔(二十三夜塔)が造立されるようになったと推測されている。(上尾市教育委員会掲示より)
下遺跡
遺跡は、北から西・南にかけて低地のある舌状台地の先端部に位置する。下芝公民館の建設に伴って行われた発掘調査では、縄文時代と中世から近世にかけての遺跡が見つかった。
縄文時代の遺構は、縄文時代前期の住居跡1軒や縄文時代の土壙が確認された。遺物は、住居跡から主に縄文時代前期の土器である諸磯式土器が見つかった。土壙から出土した土器は、縄文時代後期の称名寺式土器が主体である。
また、土器の他に、表土層などから耳飾り、勾玉などの土製品が少量見つかった。
中世から近世の遺構として、土壙6基が確認された。これらの土壙や表土層から、当該時代の坏形土器、いわゆるカワラキが多数出土した。カワラケは燈明皿として使用されたものを、埋葬に際して供献されたものと考えられている。
この他、年代不明の焼土跡8基や、近世以降の墓壙が多数確認され、墓壙からは100枚の古銭が出土した。
上尾市域で、このようにカワラケがまとまって出土する例は少なく、埋葬の形態を伝える貴重な遺跡である。(上尾市教育委員会掲示より)
中分大悲庵の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「上尾の神社・寺院」(上尾市教育委員会)
- 「上尾市史別編2」