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宝蔵寺。朝霞市宮戸にある真言宗智山派寺院

宝蔵寺の概要

真言宗智山派寺院の宝蔵寺は、薬王山佛眼院と号します。宝蔵寺の創建年代等は不詳ながら、古くより宮戸の西側字薬師堂山に薬師堂があり、その後当地に高橋内膳某が寺院として開山したといいます。

宝蔵寺
宝蔵寺の概要
山号 薬王山
院号 佛眼院
寺号 宝蔵寺
本尊 不動明王像
住所 朝霞市宮戸4-2-1
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



宝蔵寺の縁起

宝蔵寺の創建年代等は不詳ながら、古くより宮戸の西側字薬師堂山に薬師堂があり、その後当地に高橋内膳某が寺院として開山したといいます。

新編武蔵風土記稿による宝蔵寺の縁起

(宮戸村)宝蔵寺
除地、二町一段三畝十歩、駒形社の側にあり、真言宗新義、豊島郡石神井村三宝寺末、薬王山佛眼院と號す、客殿八間に六間、本尊不動明王を安す、此地は昔薬師如来を安置せし舊跡にて、その後當寺を起立せり、本尊は不動明王にて弘法大師の作なり、今の本尊是なり。此像あまりに古佛なれば、いつの世にか片眼を失ひしが、後再び一眼を補へり。この故を以て山を薬王といひ、院を佛眼と稱せり、開山はいかなる人にやその事跡を詳にせず、此頃は當寺は村の西字薬師堂山の邊にあり、後此地にうつりし年月は詳ならず、又寺傳に云、昔高橋内膳某と云人あり、此邊に居て當寺にもゆかりあり者なりといへど、其事跡を傳へず、恐らくは此人の開基なるべしと、近き頃まで殊に小寺にして、寮などの如くにてありしを、今の真能坊融寂に至りちからを盡して中興し、始て色衣を着することをゆるされたりと云、當寺所蔵の内弘治年中に書寫せし縁起あり、これは時の住僧盛辨法印のつくりしものなり、文書古實にして辞達しかたけれど、姑く左に記しぬ。
當寺元起書(省略)
鐘楼。本堂に向ひて左にあり、鐘は安永四年二月、地頭長坂権九郎信義建立なり。
薬師堂。鐘楼の側にあり、堂は三間四面、この薬師の像は當寺開闢の前より、此所に安置せし靈像にて、もとの本尊なりしとぞ、この像弘法大師の作なれど、小像なれば別に薬師の像を造りて、かの像をば腹内へ収めをけり、棟札に慶長三年高橋新十郎吉重とあり、これも前に云へる高橋内膳が子孫なるべし、今村民に高橋氏もあれば、吉重が後裔なりや、されど下民のならひにて、家系も傳へざれば、今より考ふべからず。
天神社。表門の内にあり。
秋葉社。薬師堂の前にあり。
古碑二。是も同所にあり、近き頃門前の畑をうがちて得たりと云、一は正長元年妙徳禅門の字あり、一は享徳元年十一月道海逆修とあり、二碑ともに弥陀・観音・勢至の種字を彫る。(新編武蔵風土記稿より)

「朝霞市史」による宝蔵寺の縁起

宮戸地区・宝蔵寺
薬王山佛眼院宝蔵寺といい、宗旨は真言宗智山派で、本尊は不動明王である。近世においては石神井三寶寺の末寺であったが、現在は京都府の大本山知積院の直末となっている。もとは『風土記稿』にもあるように、当時は経典を蔵するという意味で法蔵寺としていたが、いつの頃からか宝蔵寺と記すようになったらしい。
由緒としては、弘治元(一五五五)年の縁起「当寺元起書」にもあるが、開基以前は「此處薬師如来之霊地也」とあり、すでに存在した薬師如来と深く係わるところを受けて建立されたと窺え、また「一切経蔵之跡也」ともあることから、古くは経蔵・経塚などがあったとも想定される。さらに、弘法大師の自作による本尊「不動明王一尊」があったとしているあたりに、真言密教との関連を示唆するものがある。『風土記稿』には、この本尊が古朽して片目を失い、のちに補ったことから、山号を薬王山、院号を佛眼院とするになったとある。そして、開基を高橋内膳某、中興を眞能房融寂としている。いずれにせよ、境内や付近の畑地・墓地のなかから、正中二(一三二五)年・応安元(一三六八)年銘の阿弥陀種子板碑や一二世紀のものとみられる経筒のほか、多数の板碑も出土していることから、少なくとも平安時代末期には何らかの堂宇が存在したのではないかと考えられている。
なお、本堂は天和二(一六八二)年に再建、昭和三十七年に改築された。また、昭和四十一年には庫裡を竣工している。境内にある薬師堂は慶長十三(一六〇八)年に創建、寛延元(一七四八)年に焼失、宝暦五(一七五五)年に再建立し、その後いくどか改修・修理が施されている。(「朝霞市史」より)


宝蔵寺の周辺図

参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「朝霞市史」