大日堂。志木市指定文化財の梵鐘
大日堂の概要
曹洞宗寺院の大日堂は、遍照山と号します。大日堂は、承和2年(1346)に戦乱を逃れて当地に来た数名の落武者が創建、延文3年(1358)に再建したといいます。江戸期には真言宗観音寺の別院となっていたものの、明治初年に観音寺が廃寺となり、現在は龍澤山大仙寺が管理しているといいます。大日堂の梵鐘は、江戸期に鋳造された梵鐘としては志木市内で唯一の梵鐘で、志木市文化財に指定されています。
山号 | 遍照山 |
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院号 | - |
寺号 | 大日堂 |
本尊 | 大日如来像 |
住所 | 志木市下宗岡3-15-39 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
大日堂の縁起
大日堂は、承和2年(1346)に戦乱を逃れて当地に来た数名の落武者が創建、延文3年(1358)に再建したといいます。江戸期には真言宗観音寺の別院となっていたものの、明治初年に観音寺が廃寺となり、現在は龍澤山大仙寺が管理しているといいます。
新編武蔵風土記稿による大日堂の縁起
(宗岡村)大日堂
観音寺の持(新編武蔵風土記稿より)
志木市教育委員会掲示による大日堂の縁起
正式には遍照山大日堂と称し、承和二年(一三四六)十月に戦乱を逃れてこの地に来た数名の落武者により創建されたのが始まりといわれ、その後延文三年(一三五八)八月になって再建されたといわれています。
江戸期には現在の下宗岡にあった新義真言宗観音寺の別院でしたが、明治初年に観音寺が廃寺になったのに伴い宗派を超えて曹洞宗龍澤山大仙寺の傘下に入りました。
なお、境内にある梵鐘は、文政八年(一八二五)に鋳造されたもので、その際に檀家の人々が金銀・簪などを投入したという言い伝えがあり、市指定文化財にも指定されています。(志木市教育委員会掲示より)
大日堂所蔵の文化財
大日堂の梵鐘
大日堂は、口碑によれば承和二年(一三四六)落武者らが創建し、延文三年(一三五八)新たに、本堂庫裡を再建、その後新義真言宗興運山観音寺の別院となりましたが、明治初期に観音寺が衰滅したため曹洞宗龍澤山大仙寺の末寺となったといわれています。
梵鐘には、上・中・下宗岡村の名主組頭の名や観音講中の人々の名が刻まれており、宗岡村全体で先祖代々の供養のために、この鐘を鋳造し奉納したものと思われます。
この鐘を鋳造する時に檀家が金銀・簪などを投入したので鐘の響きが非常に良いといわれており、江戸期に鋳造された梵鐘としては市内で唯一のものです。(志木市教育委員会掲示より)
大日堂の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」