地王山宝幢寺。祐円上人が建武元年に創建
宝幢寺の概要
真言宗智山派寺院の宝幢寺は、地王山地蔵院と号します。宝幢寺の創建年代は不詳ですが、祐円上人が建武元年(1334)に創建したとも伝えられます。柏の城落城後(1561年)に当地へ移転、慶安元年(1648)三代将軍家光から寺領10石の御朱印状を拝領、末寺を3ヶ寺擁していたといいます。
山号 | 地王山 |
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院号 | 地蔵院 |
寺号 | 宝幢寺 |
本尊 | 薬師如来像 |
住所 | 志木市柏町1-10-22 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | 宝幢寺会館 |
備考 | - |
宝幢寺の縁起
宝幢寺の創建年代は不詳ですが、祐円上人が建武元年(1334)に創建したとも伝えられます。柏の城落城後(1561年)に当地へ移転、慶安元年(1648)三代将軍家光から寺領10石の御朱印状を拝領、末寺を3ヶ寺擁していたといいます。
新編武蔵風土記稿による宝幢寺の縁起
(館村)寳幢寺
除地、二町四方、村の西の方にあり、新義真言宗、山城國醍醐三寳院末山なり、開闢の年代は詳ならざれども、古き寺なりと云傳ふ、寺領十石を賜ふ、境内に立る先住の石碑に、権大僧都法印承永は、寛文十年三月二十四日示寂の由を刻し、其餘ふるき五輪の石塔あまたあり、みな承永より先の住持の碑と見ゆれども、文字なければ年代を考るによしなし、昔大猷院殿此邊へ御鷹狩の時は、かならず當寺へわたらせ玉ひければ、時の住僧謁し奉れり、其後しばし拝し奉りける、かくてぞ村内十石の地御寄附の御朱印を賜ひしとなん、又ある日御遊歴ありしに、境内せはきよし仰ありて、門前の地一町を加へ賜はりし、今に至りて大門の前に、又木戸を設けたる所、これのちに賜はりし地の界なりと寺僧いへり、かかりければ當寺は、寺院もことににぎはひしと見えしが、今はをとろへはてて堂宇の再建だに果すことを得ず、寂莫たる野寺なり、されど此邊にての大寺にて、末寺も三ヶ寺あり。
表門。入口より大門の間一町餘南に向ひてたつ。
裏門。表門の並にありて、東の方によれり。
本堂。天明六年火災にかかりて後、いまだ再興の事に及ばず、纔の假殿を建て、本尊地蔵尊を安す、本堂の礎石は假殿の西の方に残れり。
鐘楼。本堂礎石の前にあり、古鐘は慶安辛酉法印承秀住職の時鋳たるよしを刻したれば、今の鐘は後に改め鋳しことは勿論なれど、年月を勒せざれば、何の頃成しや知るべからず。(新編武蔵風土記稿より)
志木市教育委員会掲示による宝幢寺の縁起
正式には地王山地蔵院寳幢寺と称し、江戸期には醍醐三宝院を本山としていましたが、明治二十七年から京都智積院を本山とする新義真言宗智山派となりました。
その創建年代については、建武元年(一三三四)四月に祐円上人が開山したという説や、現在の寺の門外の西方にあった墓場の中の地蔵堂を基に天正年中(一五七三〜九二)に新寺として開山したという説、もともと現在の敷島神社付近にあったものが、柏の城が城主大石信濃守の子息大石四郎の屋敷跡といわれる現在の地へ移転してきたという説などがあり、未だ定説はありません。しかし、いずれの説をとるにせよ柏の城落城後に現在の地に建立または移転されたのではないかと推測されています。
「新編武蔵風土記稿」によれば、三代将軍家光が鷹狩りの際休息したのが機縁となって、慶安元年(一六四八)に御朱印地十石を賜り、また、境内が狭いと言って門前に一町歩加増してくれたとの記述がみえます。更に「此辺ニテノ大寺ニテ、末寺三ヶ寺アリ」とあり、当時よりこの辺でも大きな寺院であったということがわかります。
なお、この寺には「お地蔵さんとカッパ」という伝説や「ほっぺたの黒いお地蔵さん」という伝説などが伝わっています。(志木市教育委員会掲示より)
宝幢寺所蔵の文化財
- 寳幢寺前の馬頭観音文字塔
寳幢寺前の馬頭観音文字塔
文政三年(一八二〇)正月に造立され、正面には「馬頭観世音」、左側面には世話人として館村高野萬治郎、引又□三上彌惣治、館村高野三之烝、同村同勘五郎という名が刻まれており、館村の高野氏と引又の三上氏とで造立されたことがわかります。
この馬頭観音は、引又宿から大和田へ向かう街道沿いにたてられており、当時、荷物の運搬に使われた馬の供養のためにたてられたものと思われます。
石仏の規模は、台座も含めると高さが二・〇四メートルもあり、市内では最大のものです。(志木市教育委員会掲示より)
宝幢寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」