敷島神社。志木市本町の神社

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敷島神社。稲荷神社・星野稲荷神社・水神社の三社を合祀

敷島神社の概要

敷島神社は、志木市本町にある敷島神社です。敷島神社は、当地の浅間神社に、字市場の村社の村山稲荷神社・星野稲荷神社と無格社の水神社の三社を明治40年に合祀、敷島神社と改称して成立したといいます。浅間神社は、田子山塚と呼ばれていた塚から引又町の高須庄吉が暦応3年(1340)の板碑を発見し、明治5年に富士塚として造成したといいます。

敷島神社
敷島神社の概要
社号 敷島神社
祭神 木花開耶姫大神
相殿 罔象女大神、倉稲魂大神
境内社 琴比羅神社、浅間神社、鷲宮神社、稲荷神社、松尾神社、水神宮、下浅間社
祭日 -
住所 志木市本町2-9-40
備考 境外社:田子山御嶽神社、津島天王社



敷島神社の由緒

敷島神社は、当地の浅間神社に、字市場の村社の村山稲荷神社・星野稲荷神社と無格社の水神社の三社を明治40年に合祀、社名を敷島神社と改称して成立したといいます。浅間神社は、田子山塚と呼ばれていた塚から引又町の高須庄吉が暦応3年(1340)の板碑を発見し、明治5年に富士塚として造成したといいます。

「埼玉の神社」による敷島神社の由緒

敷島神社
当社は、明治四十年に無格社の浅間神社に、字市場の村社の村山稲荷神社・星野稲荷神社と無格社の水神社の三社を合祀し、社名を敷島神社と改めて成立した。社名の由来は、浅間神社の祭神である木花開耶姫命にちなんで、花を題材にした本居宣長の和歌「敷しまの倭こころを人とはは朝日ににほふ山さくら花」から引いたものである。
境内の一角に「田子山富士」と呼ばれる堂々とした塚が築かれて小る。この塚が合祀以前から同所に祀られていた浅間神社で、塚の東側の山腹には富士塚を築くきっかけとなった板碑が石祠に納められている。その碑面には「瀧山千日冨士峯前途入壇 阿闇梨耶承海十瀧房四五才道修 暦応三年庚辰(一三四〇)十一月日」と陰刻されている。
社蔵の「敷島神社縁起」によれば、南北朝期に入り戦乱やむことない乱世にあって、大和国笠置山の僧承海十瀧房は、万民の塗炭の苦に喘ぐを嘆いて心願を起こし、天下の泰平と国家の安穏を神仏に祈願のため、富士山に龍り千日の修行を行った。更に諸国の霊山に詣でる回国の途次当地を来訪し、天台宗鈴甕山東光寺の庵室に滞留中病魔に襲われたが、病の癒えるを期してこの地を卜し、逆修碑を建立して再び回国の途についたという。ちなみに、道修碑とは生きているうちに、あらかじめ死後の冥福を祈って建立した板碑のことである。また、文化十二年(一八一五)に斎藤鶴磯が著した『武蔵野話』には、この板碑について次のように記されている。
引又村は元館村と一村なりしがいつの比より別村となりしや詳びらかならず。比のうちに田子山といふ小地名あり、こゝに石碑あり。文化のはじめ此地の寮主此田子山の塚より穿出せしを直に塚の上にたて置しなり。碑面の文何の事なるや解しがたし。土人のいへるは十瀧房承海(館村宝幢寺の住持といふ)といへる僧富士山へ入定せん事をおもひ立、逆修を建置て直に富士山へ入定せしといひつたふ。按ずるに富士の縁あるがゆへに此所を田子山と号しか。
承海について「縁起」と『武蔵野話』では、その出自に相違が見られるが、宝幢寺は当山派修験の総本山醍醐三宝院の末寺であり、また道修碑を建てた地がかつて宝幢寺領であったことなどから、宝幢寺の住持であったとする説が生まれたのであろう。ちなみに、西川真二郎家所蔵の天保十四年(一八四三)「引又町明細帳」には「一、塚壱ヶ所館村宝幢寺 右塚之上ニ浅間石仏壱体丈弐尺五寸 暦応三庚辰年四月浄倭十瀧坊建ル」とある。一方、東光寺は既に廃寺となっていて、敷島神社西方のその跡地には安永六年(一七七八)の宝筐印塔が残されている。
更に田子山富士にある「田子山峰之記碑」及び「志木富士両修築之碑」に塚を築くに至った経緯が記されている。古くから現在の敷島神嶋社の辺りを田子山といい、古い塚があった。ある夜、引又町の高須庄吉の夢に高僧が現れ、この塚に登るよう誘った。不思議に思った庄吉は、親友の宮岡とこの塚を散策したところ、そこに苔むした古碑を発見した。苔を新河岸川で洗い、刻まれていた文字を読むと富士山とゆかり深いものと分かり、日ごろ富士山を信仰していた庄吉は大いに喜んだ。ここに富士塚を築造することを決心し、賛同者を募り、明治二年十月を期して工事を開始した。完成は明治五年のことであった。こうして頂上には石岡を建立し、木花開耶姫命を奉斎して浅間神社と号すようになった。
一方、明治四十年に合祀された村山稲荷神社は元来村山一家の総本家の地所に祀られていたものである。元禄十四年(一七〇一)『館村明細帳』に「一、同(御除地反別)稲荷 社地壱反拾九歩 助右衛門支配」と載り、村山家では助右衛門の名を代々襲名していたことから、この当時既に祀られていたことがわかる。口碑によれば、村山家の遠祖は、武蔵七党に属し、箱根ヶ崎(現東京都西多摩郡瑞穂町)に居住していたが、いつのころか当地に移り、その折に本貫から稲荷神社を勧請した。その後、村山家の当主が白狐を見たので、これは神社の導きであろうと、明和五年(一七六八)に伏見稲荷に勧請を願い出て分霊を受けたという。同じく星野稲荷神社は星野一家の総本家の地所に祀られたものであった。また、水神社は新河岸川の引又河岸付近に、舟運の安全を祈って祀られたものであった。
祀職は、本山派修験十玉院配下で、水子村に居を構えていた摩訶山般若院が、明治八年に復飾して水宮法徳を名乗り、当社の神職となった。(「埼玉の神社」より)

敷島神社所蔵の文化財

  • 田子山富士塚

田子山富士塚

この富士塚は、古墳といわれてきた「田子山塚」の上に盛り土をして築造されたものです。
富士塚とは、富士山を模して築かれた人造の小山で、主に江戸時代から明治時代にかけて築造され、県内だけでも約百基の富士塚が現存し、市内では、この他に一基羽根倉の浅間神社にあります。
田子山富士塚築造の発起人は、後に富士講の先達となった高須庄吉で、富士山を大変崇敬していました。
庄吉は、この地を散策中に富士山に入定したといわれる十瀧房承海の暦応三年(一三三八)の逆修板碑を発見し、大いに感激して同志をつのって築造に着手しました。
工事は、明治二年(一八六九)十月から五年六月にかけて行われました。
塚は、高さ十二メートル、樹木や岩石の配置に工夫が施されており、富士山に模して登山道・人穴・胎内・烏帽子岩・釈迦割石や富士山から運んだ熔岩などが置かれ頂上の祠の中には木花咲耶姫命が祀られています。また塚のふもとには、浅間神社の祠があり承海の逆修板碑が祀られています。(志木市教育委員会掲示より)


敷島神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)