聖神社。秩父市黒谷の神社、銭神様

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聖神社。和同開珎の銅出土を祝い創祀、銭神様

聖神社の概要

聖神社は、秩父市黒谷にある神社です。聖神社は、慶雲五年に和銅山から自然銅が産出されたことを喜んだ元明天皇は、元号を和銅と改め、勅使を下向させて銅山を見分、和銅元年(708)神祠を建立して大日孁貴命・国常立命・神日本磐余彦命の三柱を鎮祭して創建、養老6年(722)には元明天皇を合祀し、秩父の総社と称したといいます。和銅露天掘り跡は当社から徒歩15分ほどに位置し、「銭神様」として崇敬を集めています。

聖神社
聖神社の概要
社号 聖神社
祭神 金山彦命、国常立命、大日孁貴命、神日磐余彦命(神武天皇)、元明金命(元明天皇)
相殿 -
境内社 和銅出雲神社
祭日 -
住所 秩父市黒谷2191
備考 -



聖神社の由緒

聖神社は、慶雲五年に和銅山から自然銅が産出されたことを喜んだ元明天皇は、元号を和銅と改め、勅使を下向させて銅山を見分、和銅元年(708)神祠を建立して大日孁貴命・国常立命・神日本磐余彦命の三柱を鎮祭して創建、養老6年(722)には元明天皇を合祀し、秩父の総社と称したといいます。江戸期には黒谷村下郷の鎮守として祀られ、明治8年村社に列格、昭和40年には秩父市中町の今宮神社本殿を移築して当社本殿とし、旧本殿は境内社和銅出雲神社として祀っています。当社創建当時に奉納された和銅石や元明天皇下賜の銅製百足が和銅鉱物館に保管されている他、和銅露天掘り跡は当社から徒歩15分ほどに残され、「銭神様」として崇敬を集めています。

新編武蔵風土記稿による聖神社の由緒

(黒谷村)
聖明神社
土人云、神體は慶雲年間和銅山よりほり出せしが、卅年前に所在を失ひしと、所祭國立常尊・天照大日霊尊・磐余彦尊三座合祀す、下郷の鎮守、例祭二月十三日・十一月十三日なり、神職増田伊賀吉田家の配下なり(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による聖神社の由緒

和銅の発見献上を喜ばれた朝廷は、祝山にお宮を建て金山彦命を祀り祝典をあげました。
聖神社の社記によれば、創建は和銅元年二月十三日で、和銅奉献の祝祭が終って一か月後には、祝山から蓑山を背にした現在地へ移され前記の神々をご祭神として祀りました。
社殿は以来、四回の建替えを経て現在に至っています。そして昭和三十九年四月十三日秩父市中町今宮神社の本殿拝殿を聖神社として移築されたことに伴い、新社殿脇に旧本殿を移し大國主命を祀る和銅出雲神社として奉斎されることになりました。
一間社流れ造りの本殿と入母屋造りの礼拝殿からなる現聖神社社殿は、江戸中期宝永六、七年にかけて大宮郷の工匠大曾根与兵衛の建立になり、彫刻は桃山期の遺風をわずかに残し活気に満ちたもので「聖神社の社殿」として秩父市指定有形文化財になっています。
祭行事は年八回です。一月一日の元旦祭、二月三日節分祭、二月二十三日の祈年祭、四月十三日の例大祭、七月十三日の禦ぎの行事、十一月三日の和銅出雲神社大祭、十二月十三日の献穀祭、十二月三十一日の大祓式で、元々は十三日に絡む日にすべての祭事が行われていました。(聖神社掲示より)

「銭神様」の御利益について

「銭神様」の御利益
元明天皇の慶雲5年(708年)、我が国初のニギアカガネ(自然銅)が秩父の地で見つかり、朝廷に献上されました。
それがきっかけとなり、わが国最初の流通貨幣「和同開珎」が鋳造されました。
朝廷は、勅使を遣わし祝山に神籬(神霊の宿るところ)を建てて金山彦命を祀り祝典を挙げました。
聖神社の創建は和銅元年2月13日で、和銅の産地といわれる露天掘りの遺跡が近くにあります。
今でもニギアカガネが御神体として奉られ、和同開珎ゆかりの神社であることから「銭神様」とも呼ばれ、「お金儲けの縁起の神様」として、注目されています。(聖神社掲示より)

「埼玉の神社」による聖神社の由緒

聖神社<秩父市黒谷二一九一(黒谷字菅仁田)>
当地は『續日本紀』に「武蔵国に、自然成れる和銅出でたりと奉し献れり」(原漢文)とある和銅採掘の地として有名で、地内には和銅山・和銅沢・銅洗堀・殿地・蔵人屋敷など和銅に因んだ地名が多い。
当社は蓑山の一支脈である和銅山を背にして鎮座し、その創建も和銅の発見にかかわっている。社記によると、元明天皇の慶雲五年、この地から発見された自然銅を朝廷に献じたところ、これを喜んだ帝は直ちに年号を和銅と改め、武蔵国の庸・調を免じ、勅使として多治比真人三宅麻呂を下向させて銅山を見分して祝祭を挙行し、山麓の清浄な地を選び神祠を建立して大日孁貴命・国常立命・神日本磐余彦命の三柱を鎮祭したという。これが当社の創建で、時に和銅元年(七〇八)二月一三日であった。また、創建当時、採掘した和銅一三個と元明天皇下賜の銅製百足雌雄一対を内陣に納めたといわれる。この銅製百足は、銅の採掘の穴を百足穴と呼ぶことに由来すると考えられ、百足が繁殖するように鉱業も長く栄えることを祈ったものと思われる。口碑には、文武百官の参列を表現したという。
次いで養老六年(七二二)一一月一三日に元明天皇を合祀し、秩父の総社と称した。
往時の祀職は、『風土記稿』によると、吉田家の支配を受けていた増田家が務めており、同家には天明二年をはじめに四通の神道裁許状が現存する。現在、宮司を薗田武男、禰宜を増田忠三が務める。
明治八年に村社となり、同四二年には村内にある一二社の神社を合祀したが、そのほとんどが跡地で祭祀が行われている。
社殿の造営は社記に仁和三年(八八七)二月一三日を始めとして文明一三年・寛文四年・文化四年と記録されている。また、昭和四〇年には秩父市中町の今宮神社本殿を移築し、当社本殿とした。この一間社流造りの社殿肢は宝永六、七年にかけて大宮郷の工匠、大曾根与兵衛によって建立された立派なもので、その彫刻は桃山期の遺風をわずかに残し、活気に満ちたものである。なお、旧本殿は当社の脇に移され、大国主命を紀る和銅出雲神社として奉斎されている。
創建当時、内陣に納められたと伝えられる和銅石一三個と元明天皇下賜の銅製百足雌雄一対は、北谷戸家所蔵の『聖宮記録控』に「聖明神宮之儀に付(略)右之品々持参いたし置候」とあるように、御神体の紛失を恐れた北谷戸家がこれを持ち帰り、その後、長い間同家で保管していたが、昭和五六年に創建一二三〇年を記念して式典が行われたことを機に当社に移管された。この時、併せて同家の家宝である朝廷へ初めて献上された和銅石と同時に発掘されたという和銅石及び『聖宮記録控』一冊が奉納された。これらは、境内の一隅に建設された宝庫に納められている。(「埼玉の神社」より)


聖神社所蔵の文化財

  • 黒谷の獅子舞
  • 聖神社の社殿 (秩父市指定有形文化財)

黒谷の獅子舞

黒谷の獅子舞は左甚五郎が黒谷の地に立ち寄り、竜頭を刻んで聖大明神(聖神社)に奉納したことに始まると言われています。
宝暦五年(一七五五)三河国(現在の愛知県)岡崎から師匠を招き十五種(獅子舞でいう十五庭)の舞を伝授され、岡崎下妻流を名乗ったと言われています。
文政初年の頃、秩父地方に日照りが続き、いろいろと雨乞いの手を尽したが効果がなく、秩父代官の御陣屋から黒谷獅子舞連中に妙見様(現秩父神社)に来て雨乞いの簓をするようお達しがありました。さっそく、竜頭を先頭に瓢箪廻しの簓を舞ったところ、雲一つない青空から、大雨が滝のように降り出したと言われ、それ以来黒谷の獅子舞は「雨乞い簓」と呼ばれるようになりました。現在、秩父市無形民俗文化財に指定されています。(聖神社掲示より)

和銅露天掘り跡と聖神社

和銅(自然銅)がここ黒谷で発見され、奈良の都へ献上されたのは慶雲五年(七〇八年)一月十一日のことでした。このことを非常に喜ばれた元明天皇は年号をすぐに和銅と改め、国を挙げてお祝いをし、「和同開珎」を発行しました。「和銅露天掘り跡」はこの先六百メートルほど、徒歩約十五分で到着します。
祝典のために「祝山」に建てられたお宮を今の地に移し、聖神社と称して創建されたのが同じ年の二月十三日でした。
和銅石十三個をご神宝として祀り、また蜈蚣が「百足」と書かれることにちなんで、文武百官(たくさんの役人)を遣わす代わりにと朝廷から戴いた雌雄一対の蜈蚣をご神宝として併せ祀りました。
以来、里人は、黒谷の鎮守様として千三百年の長い歳月「この上なく耳聡く口すべらかな」(何を言ってもそのことをよく理解してくれ、人の心に染み入る言葉をかけてくれる)神として崇拝してきました。
その間、今までに五回、社殿建替えが記録に残っています。現在の社殿は、昭和四十年一月二十五日秩父市有形文化財に指定されたものです。
境内には宝物庫・和銅鉱物館があり、自然銅、和同開珎、和銅製蜈蚣、数百種の和銅関連鉱物、当地出土の蕨手刀などが見学できます。(秩父市・秩父市和銅保勝会掲示より)

聖神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」