和銅遺跡。秩父市黒谷にある旧跡・名所

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

和銅遺跡。秩父市黒谷にある旧跡・名所

和銅遺跡の概要

和銅遺跡は、秩父市黒谷にある名所旧跡です。和銅遺跡は、武甲山の西麓に位置、石灰岩が長い年月のあいだに風雨や地下水によって溶解浸食された洞窟で、洞穴の長さは約一三〇メートル、高低差約三三メートルで埼玉県天然記念物に指定されています。江戸期には、修験石龍山橋立寺の奥の院として使用されていたことから、数多くの仏像が安置されています。

和銅遺跡
和銅遺跡の概要
旧跡・名所名 和銅遺跡
みどころ 県指定旧跡
入場時間 -
入場料 無料
住所 秩父市黒谷
備考 -




和銅遺跡の縁起

和銅遺跡は、慶雲5年(708)に和銅(自然銅)が発見・採取された地です。これを喜んだ元明天皇が年号を「和銅」と改元、日本初の通貨「和同開珎」が鋳造されました。当地は、出牛-黒谷断層といわれる断層面の一部が露出した地で、銅が露天掘りされました。

境内掲示による和銅遺跡について

和銅遺跡
慶雲五年(七〇八年)今から千三百年前、ここ武蔵国秩父郡から和銅(自然銅)が発見され都へ献上されました。これを喜んだ元明天皇が年号を「和銅」と改め、罪人の罪を許したり軽くしたり、高齢者・善行者の表彰、困窮者の救済、官位の昇進を行い、その上に武蔵国の税の免除があれたと「続日本紀」に書かれています。その中に、和銅発見に関係したといわれる日下部宿彌老、津島朝臣堅石、金上元(金上无とも)の名前も見られます。都から遠く離れた秩父が、歴史の表舞台にあらわれ、一躍脚光を浴びました。
催鋳銭司の長官には田治比真人三宅麻呂が任命され、やがて日本最初の通貨とされる「和同開珎」が発行されます。国家の体制が整い、都城建設を進め、通貨時代の幕開けを告げることになった献上和銅の初めての産出場所は、ここ「和銅露天掘り跡」なのです。地質学上「出牛-黒谷断層」といわれる断層面の一部が露出した状態で、和銅山頂から、麓を流れる銅洗堀まで幅約三メートルのくぼみとなって残されています。
近くには和銅元年に創建され、和銅献上に関係が深いと伝えられる聖神社があり、大小二個の和銅石(自然銅)・和同開珎・和銅製の雌雄一対の蜈蚣がご神宝として収められています。なお、付近に散在する地名に和銅献上時を偲ばせるものが多いのも歴史の深さを物語っていると思われます。(秩父市・秩父市和銅保存会掲示より)

新編武蔵風土記稿による和銅遺跡について

(黒谷村)
箕山
村の東にある山にて、皆野村まで二里許も續けり、土人或は金山とよび、或は和銅山と云、往古和銅をほり出せしは、即此山の内なり、元明天皇慶雲四年武蔵國秩父郡より始て和銅を獻り、よりて改元和銅元年としたまう、此事は國史に載する所なり、さて其和銅を出せし地は、當村の箕山なりとも云へど凡千年餘の星霜を經ぬれば、其所も定に知りがたし、ただ土人の傳へをとれるのみ、茲に銅山の形勢を見るに、東向して巌徑を擧ること八九町、盤回して頂に至る、巨磐往々に突兀として峙立せり、其色頗る赤氣を帶びて、銅色を含めり、往古鑿ちしと云へる所は、盤岩の上を南北にほり盡して中斷し巨巌東西に對峙せり、中斷せし所を今に和銅澤とよべり、西の巌上に小祠ありて、杉松擁蔽せり、秋葉愛宕の神を祭ると云、こゝをば硫黄山とよべり、此山の東南にある數處の岩穴は、土人の傳へに、和銅をほり出せし遥の後年に、好事のものありて人をして砂銅をほらせ、これを俵にし典物などとし出せしが、事の就らざるを知り、遂に逃去りぬと云、此時や近さと遠郷より篳食壺漿して、觀る者蟻附し、往々に休所茶店など設て、殊に賑ひしと云、岩穴左に記す、其一は穴口五尺許、幅四尺許、深さ六間、右に少し回りて入ること五間許、其一は穴口前に同じ、入ること七八間の間は、乳水點滴して湛水脛に及べり、右に折て十二三間にして止む、其一は二穴一所に並ぶ、一は入ること二間許、一は口窄く折腰して、入ること六七尺許三叉せり、中央は入ること二間許、右は六七尺左は六七間、其一は又二穴一に並ぶ、左の一は入ること二間許、右の一は三間許も入り、乳水湛へて深さ股に及べば、其奥へは入りがたし
---
和銅澤
前にのする和銅をほり出せし跡、沃となりしと云。此澤の續きに銅洗堀の小流あり(新編武蔵風土記稿より)


和銅遺跡の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」