武甲山御嶽神社。秩父郡横瀬町横瀬の神社
武甲山御嶽神社の概要
武甲山御嶽神社は、横瀬町横瀬にある神社です。武甲山御嶽神社は、日本武尊東征に際して天神地祇を武甲山山頂に創祀、安閑天皇の代に蔵王権現が勧請されたといいます。源頼朝や、畠山重忠、北條氏邦なども崇敬したといいます。明治4年には村社に列格、明治40年に武甲山山頂から当地(根古屋)へ遷座したといいます。
社号 | 御嶽神社 |
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祭神 | - |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 秩父郡横瀬町横瀬880-2 |
備考 | 旧村社 |
武甲山御嶽神社の由緒
武甲山御嶽神社は、日本武尊東征に際して天神地祇を武甲山山頂に創祀、安閑天皇の代に蔵王権現が勧請されたといいます。源頼朝や、畠山重忠、北條氏邦なども崇敬したといいます。明治4年には村社に列格、明治40年に武甲山山頂から当地(根古屋)へ遷座したといいます。
新編武蔵風土記稿による武甲山御嶽神社の由緒
(横瀬村)
長文のため割愛(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による武甲山御嶽神社の由緒
御嶽神社<横瀬町横瀬一六四五(旧横瀬字武甲山)>
当社の縁起を要約すると次のようになる。
日本武尊が甲斐の酒折宮から雁坂峠を越え武甲山に登られ、東征の目的を果たされた祝いに武具を岩屋に納めて、天神地祇を祀る。
これが当社の創始で、その後、安閑天皇の代に我が国の農業も進み、各所に義倉を置き凶作に備えるようになり、義倉を置いた国の高山には蔵王権現が勧請された。当社もこの一つで、そのため、武蔵の国号神社とも呼ばれる。更に、欽明天皇の代に日本武尊・男大迹尊・武金日尊を配祀する。下って、文治五年源頼朝は当社に武運を祈願し、その験あって、建久二年に社領を寄進している。また、畠山重忠は当社を厚く信仰して宗近の太刀を奉納する。天慶七年に関東地方に大流行した悪疫のため、時の郡司は当社に医薬の神とされる少彦名尊を配祀して祈願を行う。永禄二年には甲斐武田の軍勢が乱入して当社を焼いたが、この時北条氏邦は当社に祈願して武田勢を追い払い、報賽として当社に国光の太刀と社領永三貫目の地を寄進し、天正二年に社を再建して大山祇尊を配祀する。また大坂夏の陣には徳川家康が当社に戦勝を祈って正宗の太刀を奉納する。
なお、当社に伝わる神楽は文禄五年鉢形城主日下部丹波守が初めて神前に奉奏し、装束類を奉納したのに始まるという。
明治四年に村社となり、同四〇年五月三一日には、海抜一三三六メートルの武甲山頂上から、その山麓にある現在地の根古屋(里宮) へ遷座する。この遷座は、村社が山頂にあるのでは不便であることと、村内にあった計二〇社の無格社を合祀するためであった。なお、この遷座後、頂上の社は奥社とされている。
武甲山は、秩父夜祭りで有名な秩父神社の神体山であるという説もあり、秩父市内の清水武甲写真館の前にある、夜祭りのお旅所(通称亀の子石)から移された文化一二年銘の石灯籠には「山神宮・武甲山・妙見宮」と刻まれている。当社の創始は、古くから神の山とされてきたこの武甲山に対する信仰から起こったものであろう。『日本人の祭礼』に「ひもろぎにしてもいわさかにしても古くは高い所にこしらへることが多く、あるいは進んで山の上にこれを設営することもあった」とあるが、古くは武甲山そのものが神であり、やがて頂上に社が祀られ、次いで祈願所(里宮)が麓に設けられ、更に、時代が下ると参詣者の便を考えて麓に本社を移転したものであろう。
祀職は北面の武士であった守屋吉集が、応仁の乱を避けて当地に居住して社家となり、現在二〇代の憲太郎まで続いている。ただし、宮司は昭和五年から斎藤家で務めており、現在、貞次が奉仕している。
なお、斎藤家は元は京都御所の祀官であったが、元亀元年に当地に移ったと伝えられる。(「埼玉の神社」より)
武甲山御嶽神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿