秩父神社。祭神知知夫彦命、妙見社、旧国幣小社
秩父神社の概要
秩父神社は、秩父市番場町にある神社です。秩父神社は、允恭天皇の34年に、知知夫彦命九世の孫である狭手男巨が「遠き御祖の御璽を葉葉染の社に祀」り創建したといいます。崇神天皇代に国造が全国に設置された際には、「知知夫国」総社とされ、貞観7年(865)までは、(氷川神社よりも神階の高い)最高位の正五位上を受けていたといいます。その後律令制度の崩壊に伴って、当社(知知夫神社)も歴史から姿を消してしまい、豪族が台頭します。平将門の乱に際して平良文は、群馬郡花園妙見社の加護により平将門を討ち破れたことから、妙見社を信仰、秩父に居を構えた際に妙見社を勧請、いつしか、当社の主祭神が知知夫彦命から妙見大菩薩に変わったのではないかといいます。その後妙見社と称されて崇敬を集め、天正19年(1591)には社領57石を受領、武田信玄に焼かれた社殿も翌年より再建、この社殿は現存し埼玉県有形文化財に指定されています。明治維新後の神仏分離により、当社は秩父神社と改号、明治6年県社に、昭和3年国幣小社に指定されています。
社号 | 秩父神社 |
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祭神 | 八意思兼命、知知夫彦命 |
相殿 | 天之御中主神、秩父宮雍仁親王 |
境内社 | 天神地祇社、豊受大御神、東照宮、天満天神宮、禍津日社、皇大神宮、日御崎宮、柞稲荷神社 |
祭日 | 秩父夜祭12月2・3日、川瀬祭7月19・20日、秩父宮祭5月3日 |
住所 | 秩父市番場町1−3 |
備考 | - |
秩父神社の由緒
秩父神社は、允恭天皇の34年に、知知夫彦命九世の孫である狭手男巨が「遠き御祖の御璽を葉葉染の社に祀」り創建したといいます。崇神天皇代に国造が全国に設置された際には、「知知夫国」総社とされ、貞観7年(865)までは、(氷川神社よりも神階の高い)最高位の正五位上を受けていたといいます。その後律令制度の崩壊に伴って、当社(知知夫神社)も歴史から姿を消してしまい、豪族が台頭します。平将門の乱に際して平良文は、群馬郡花園妙見社の加護により平将門を討ち破れたことから、妙見社を信仰、秩父に居を構えた際に妙見社を勧請、いつしか、当社の主祭神が知知夫彦命から妙見大菩薩に変わったのではないかといいます。その後妙見社と称されて崇敬を集め、天正19年(1591)には社領57石を受領、武田信玄に焼かれた社殿も翌年より再建、この社殿は現存し埼玉県有形文化財に指定されています。明治維新後の神仏分離により、当社は秩父神社と改号、明治6年県社に、昭和3年国幣小社に指定されています。
新編武蔵風土記稿による秩父神社の由緒
(大宮郷)妙見社
下町續にあり、當社は【延喜式】神名帳に載たる、本郡二座の一秩父神社なり、人皇四十代天武天皇白鳳四年の鎮座にして、祭神は當國國造の祖知々夫彦命とも、大己貴尊とも云、又當社天正二十年の棟札の裏書に、欽明天皇御宇、明要六年丙寅鎮座とあり、明要は逸號なれば、丙寅は即位より七年に當れり、當今の縁起には、大和國三輪大明神を寫など記して、其説定かならず、按に【國造本紀】瑞籬浅御世八意思金命十世孫知々夫彦命、定賜國造拝祠大神とあるに據れば、崇神の浅國造を置玉ひし時より、國神の祀らしめられしなれば、祭神大己貴命なること疑ひなかるべし、然に後年知々夫彦の靈をも配せ祀りしかば、兩説となりしにあらずや、三輪を寫せしと云は、いかなる據にや詳ならず、又當今妙見社と號するものは、後年社内に北辰妙見社を勸請して、靈驗著しかりければ、終に妙見の名盛に行はれて、本社の舊號は失ひしなるべし、按に【三代實録】に、貞觀四年七月廿一日戊子、授武蔵國正五位下勲七等秩父神正五位上、同十三年十一月十日壬午授從四位下、元慶二年十二月八日己巳授正四位下と載るのみならず、見に其地の名を大宮と稱せるにても當時大社なりし事知らる、神體白幣を置く、社傳云、中古までは末社も七十五宇建たりしに、兵亂の爲に焼亡せられ、神田をも掠め奪はれ、神殿瑞籬のみ纔に存せしを、東照宮廢れたるを興させ玉ひ、五十七石の神領を御寄附ありしより、神事祭禮等舊に復すと云、毎年二月三日祈年の祀り、八月廿三日年穀の祭、十一月三日麥穀の祀りにて、近郷つどひてことに賑はへり、按に當所へ妙見を勧請せしことは、千葉氏譜に據に、天慶年中平高望の五男、村岡五郎良文常陸の國香、下総國染谷川の邊にて、将門と合戦の時、國香が加勢としてはせ向ひ、難なく将門を追退けし頃奇瑞有し故、良文里老を招て此邊に靈驗の神社ありやと問ひければ、里老答て上野國群馬郡花園村に、妙見菩薩の靈場ありと云、夫より良文同國緑野郡平井へ赴き、秩父へ居を移せし時、彼花園の妙見を當地へ勧請し、其後又良文下總國千葉へ轉ぜし頃、當所の妙見を彼國へ勧請すといへり、其後良文三代の孫平将恒(或作将常再び當郡中村に移住、中村太郎秩父太郎ともいふ)と號し、子孫打續て居住せしかば、畠山・河越・小山田・江戸・葛西・榛谷等の家、是より分れて當國の名家となれり、彼中村と云は古き郷名にて、【和名抄】にも出たれど、今は纔に小名に遺れり【東鑑】文治六年十一月三日、右大将賴朝發駕随兵の中に、中村兵衛尉・同小太郎・同七郎・同五郎・同四郎など見えしは、爰に住せし人にや、又正和・延慶の頃中村彌次郎なるもの、妙見造營及寄進等の文書の寫數通、神職の家に傳へたり、こは全く良文の末孫なるべし、今も祭禮の時小名中村より舊例に任せて、神馬を牽奉るは、将恒以来舊儀の僅に存しならん、されど中葉戰争の頃、社頭も兵焚に罹りて、舊記等悉く失ひたるのみならず、近き年神主に不正の事ありて御告を蒙り、一旦斷家となり、其後新に置れて、今の薗田筑前まで二代なるよしいへば、古事の傳はざるも宜なり、當今傳ふる所の縁起は、恐くは後人の妄作に成りしものなるべし、社地一萬千よん百八十四坪、是を柞の森と稱す、杉・檜・槻の大木多く繁茂し、古社の様思ひ知らる、神主唯一神道吉田家の配下にて園田筑前と云、社人宮前・丹波・同主税権代丹後・橋塚・淡路など稱せる者あり、
本社。南向一丈七尺餘に一丈九尺餘、高二丈七尺八寸、前に幣殿あり、一丈二尺に一丈八尺、高一丈八尺五寸、拝殿三丈六尺に一丈八尺餘、高二丈三尺餘唐破風作なり
鳥居。木にて造る、南向柱間二丈、拝殿距ること四十三間餘、此間切石を敷けり、社地には檜・杉生茂り、又大樫など若干株あり、此鳥居内にある末社下にしるす、當社棟札左の如し、(棟札銘文省略)
〇東照宮御社。本社東南隅にあり
〇知々夫彦社
〇天照太神社
〇日御崎社
〇豊受太神社
〇七十五末社。本社の後ろより、少し左右へ折廻し、一棟にて七十五座區別す。片倉明神社、由留伎明神社、伊雑並明神社、羽野明神社、阿野権現社、多戸明神社、中原明神社、多賀明神社、枚岡明神社、大鳥明神社、住吉明神社、敢國明神社、都並岐明神社、伊射波明神社、熱田明神社、事麻知明神社、淺間明神社、三島明神社、寒川明神社、洲崎明神社、玉前明神社、香取大神宮、鹿島大神宮、南宮明神社、水無明神社、諏訪明神社、抜鉾明神社、二荒山明神社、都々古和気明神社、大物忌明神社、遠敷明神社、気比明神社、白山明神社、気多明神社、伊夜彦明神社、渡津明神社、天神地祇社、物部明神社、由良姫明神社、仲山明神社、吉備明神社、嚴島明神社、玉祖明神社、日前明神社、大麻彦明神社、田村明神社、都佐明神社、筥崎明神社、高良玉垂明神社、西寒田明神社、淀姫明神社、阿蘇明神社、和多積明神社、松尾明神社、吉田明神社、戸隠明神社、丹生明神社、貴布彌明神社、廣瀬明神社、瀧田明神社、正八幡宮、粟島明神社、恩智明神社、斯香明神社、熊野権現社、水尾明神社、白鬚明神社、御崎明神社、石出明神社、賀茂明神社、許波明神社
神楽殿。御供所。手水石
七つ井。本社より西北の間に、其數七つ往々にあり、里民常用とす徑四尺許、平水二尺餘の清水にて、旱魃にも涸れず、洪水にも溢れずと云、
鐡燈籠二基。
石灯籠八基。
雨池。或は尼ヶ池とも書せり本社の東二町許にあり、往昔雩祭の時、この池にて祈禱せしよし、今は水涸て畑となれり、僅の坳あり、
拝来。本社の南五町許にあり、例祭十一月三日、神輿の旅所となりて、人々拝み来ると云ふより地名となり。
犬戻橋。本社の艮二町許にあり、昔は土橋なりしが、今は石橋にて長九尺、幅五尺許、大宮郷より大野原村へ往来の小堀に架せり、名義詳ならねど、其名を惡みて婚禮の時には、渡らぬことゝはなれり。
神主園田筑前。(省略)(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による秩父神社の由緒
秩父神社<秩父市馬場町一ー一(大宮字母巣森)>
古の面影を今に伝える柞の森を背に、雄々しく力強い山容を持つ武甲山を仰ぎ見るように鎮座する当社は、県内屈指の古社であり、その例祭は秩父夜祭の名で広く全国に知られている。
「秩父」は、古代においては「知知夫」と宛て、一つの国を成していた。当時の知知夫国の範囲は、現在の秩父郡とほぼ等しいと考えられており、国の政務や祭胞を司る国造が置かれたのは、武蔵国に約一世紀先立つ、崇神天皇の時代であったと『國造本紀』に記されている。「瑞籬朝御世。八意思金命十世孫知知夫彦命定賜国造拝祠大神。」の記事がそれである。この『國造本紀』の記事は、国造の任命を伝えると同時に、当社の創建をも伝えている。すなわち、「拝祠大神」の一節である。社記には、允恭天皇の三四年に、知知夫彦命九世の孫である狭手男巨が「遠き御祖の御璽を葉葉染の社に祀る」とあることから、まず八意思兼命(大神)が祀られ、後に知知夫彦命が併せ祀られたものと思われる。
知知夫国はやがて武蔵国に併合され、その一郡となったが、平安初期においては、なお相当な勢力を有しており、当社もまたその勢力に支えられ、繁栄したと推察される。
『三代実録』には、諸社への神階奉授の記録がある。これを県内の神社に限って見るならば、神階奉授の初期にあっては、当社が最高位に叙され、足立郡の氷川神社がこれに次いでいた。貞観七年になると正五位上であった当社を抜いて氷川神社が正四位下に昇進し、この関係は逆になる。最終的には、元慶二年に、氷川神社は正四位上、当社は正四位下に叙されるが、これに次ぐ椋神社は従五位上、金佐奈神社は従五位下である。このことは、『延喜式』の神名帳では氷川神社や金佐奈神社が「名神大」となっているのに対し、当社が「名紳小」であることから考えても、勢力の変遷を示すものと注目できる。
しかし、古くは大きな勢力を誇った当社ではあるが、延長五年に完成した『延喜式』に記されているのを最後に、明治維新に至るまで歴史上にその名を表すことはない。それは、律令制度の崩壊により、当社を支えてきた豪族の力が弱まるにつれ、当社も次第に衰徴していったためであろう。これに代わって登場するのが妙見社である。
天慶年間、平将門と常陸大掾・鎮守府将軍であった平国香が戦った上野国染谷川の合戦で、国香に加勢した平良文は、同国群馬郡花園村に鎮まる妙見菩薩の加護を得て、将門の軍勢を撃ち破ることができた。以来、良文は妙見菩薩を厚く信仰し、後年、秩父に居を構えた際、花園村から妙見社を勧請した。これが、秩父の妙見社の創建であると、社記や『風土記稿』は伝えている。
良文はその後、下総国に居を移したが、その子孫は秩父に土着し、秩父平氏と呼ばれる武士団を形成した。また、武蔵七党の丹党の惣領である中村氏も、秩父に土着した。
中世の秩父においては、式内社秩父神社が忘れられ、妙見社が、奉斎する武士団に支えられて、交代したものと思われる。
当初、妙見社は、秩父神社の北東の宮地(一説には大野原)(註:大野原愛宕神社参照)に鎮座していたが、嘉禎元年に落雷に遭い社監を焼失したため、翌年、幕府は再建を命じ、柞の森に妙見社を移し、火神である愛宕神を旧地に祀り、後難を防がした。正和三年に至ってようやく社股が落成し、遷宮が行われた。これについては、正和二年の『秩父妙見宮造営次第』(県指定有形文化財)が残されている。次いで、社記に「応永四年の秋七月、鎌倉の主将足利左馬頭氏侯、中村の氏、園田の氏此二氏に命じて神社の再興を営もふさしむ」とあり、丹党中村氏が奉斎の中心にあり、神職として薗田氏があって、今日の祭祀が整えられた時期はこのころと考えられる。
永禄一二年、甲斐国から秩父に攻め入った武田信玄は、郡内の有力な社寺に次々と火を放ち、焼き払った。このため、当社も社領を失い社殿は烏有に帰した。しかし、氏子らは天正元年に仮殿を造営し、同七年には鉢形城主北条氏邦が当社再建に着手するとともに社領七石を寄進した。天正一八年に鉢形城が落城したため、この北条氏による再建は成らなかったものの、同一九年には徳川家康から社領五〇石を加増され、五七石となり、翌二〇年には家康の命により本殿の造営が行われ、次いで拝殿・幣殿が造営された。これが昭和三〇年に県指定有形文化財となった現在の社殿で、天正二〇年の棟札が現存する。構造は権現造り(本殿は三間社流造り)で、本殿・拝殿ともに極彩色の華麗な彫刻が施されている。とりわけ、拝殿正面左側の「子育ての虎」と本駿東側の「つなぎの竜」と題された彫刻は有名で、当代随一の名工左甚五郎の手になるものと伝えられている。
江戸時代の絵図を見ると、境内の中央に妙見社があり、その社殿を取り囲むように天照大神宮・豊受大神宮・神宮司社(知知夫彦と記す絵図もある)・日御崎社の四桐が配されている。神宮司社は、式内社である秩父神社の衰微した姿であるといわれており、斎藤鶴磯は『武蔵野話』の中で、この神宮司社について「この神祠は地主にして妙見宮は地借なるべし。(中略)妙見宮は大祠にして秩父神祠は小祠なり。諺にいへる借家をかしておもやをとらるゝのたぐひにて、いづれ寺院神祠には、えてある事なり」と評している。
明治維新に際して行われた神仏分離を機に、当社は秩父神社の旧号に復することになり、祭神も八意思兼命・知知夫彦命の二柱に改められ(前述の神宮司社はこれにより廃止)、妙見社祭神であった妙見大菩薩は天之御中主神として配記されることになった。
明治四年に郷社となったが、同六年に県社に昇格し、次いで昭和三年には国幣小社となった。昭和二八年には、同年逝去された秩父宮雍仁親王の尊霊を配祀し、現在に至っている。(「埼玉の神社」より)
秩父神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」