語歌寺・語歌堂。秩父三十四ヵ所霊場5番
語歌寺の概要
臨済宗南禅寺派寺院の語歌寺・語歌堂は、小川山と号します。語歌寺・語歌堂は、当初長興寺境内にあった観音堂を、享保5年(1720)に長興寺の檀徒本間孫八が私財を投じて当地に移転建立したといいます。本間孫八はこの語歌堂内で和歌の上達を祈念、ある夜一人の旅僧が現われ歌道の奥義を談じ合ったことから語歌堂と呼ばれるようになったといいます。秩父三十四ヵ所霊場5番です。
山号 | 小川山 |
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院号 | - |
寺号 | 語歌寺 |
住所 | 秩父郡横瀬町横瀬 |
宗派 | 臨済宗南禅寺派 |
本尊 | 准胝観世音像 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 秩父三十四ヵ所霊場5番、長興寺兼帯 |
語歌寺の縁起
語歌寺・語歌堂は、当初長興寺境内にあった観音堂を、享保5年(1720)に長興寺の檀徒本間孫八が私財を投じて当地に移転建立したといいます。本間孫八はこの語歌堂内で和歌の上達を祈念、ある夜一人の旅僧が現われ歌道の奥義を談じ合ったことから語歌堂と呼ばれるようになったといいます。
境内掲示による語歌寺の縁起
別当寺長興寺の檀徒本間孫八という人が慈覚大師の作と伝えられる准胝観音を安置するために長い歳月を費やし精根をかたむけ、この観音堂を作ったという。本間孫八は富豪だったが、和歌の道に暗いことを憂いこの観音堂にこもり歌道を学び祈念した。ある夜一人の旅僧が現われ孫八と徹夜で歌道の奥義を談じ合ったという。語歌(歌を語る)堂の由縁。(横瀬町教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による語歌寺の縁起
(横瀬村)第五番觀音
秩父卅四番札所の内なり、小名語歌にあり、即ち觀音堂を稱して、語歌寺小川山と號す、年貢地にあり、堂は東向三間五尺七寸四面、(【圓通傳】には、五間四面とす)本尊準堤觀音、木坐像長九寸二分、(【圓通傳】には九寸一分とす)慈覺大師の作なり、【圓通傳】に云、御寺創立の大檀那はこの所の長に本間孫八と云人なり、大師の高徳を信じ、彫刻の像をこゝに安置せんと、資財を喜捨し、堂宇をいとなみ、信心厚く、曾て鋪嶋の道に意をよせける折ふしに一日旅客あり、此堂に通夜し、夜もすがら孫八と和歌の奥義を談し、鶏鳴に至て聖徳太子、片岡山の化人と贈答の和歌を講し、因みに祖師西来の本旨を示し、東の岑の白む忽その人の姿を失せり、孫八歓喜して即ち御堂を語歌寺名づく、これ必歌道を語りし旅客は、救世大士の應化なることを示さんがためなり、一には單傳直指の歌により、大悟せしにより、悟歌の堂とも云しよし、古来の傳説なり、その後數回の甲子を經て、堂塔破壊に至りし頃、信濃國の片山陰に一人の老嫗あり、一女を養育せし爲に、世路のけはしきを經る苦も忘れ、年月々送しに、或月この娘何地ともしれず失ぬれば、嫗大いに驚きここかしこと尋求れども、似たる音信だになければ、力もよはり空しき床に歎きくらしけるが、宿縁の催す処か、不圖この觀音の賴をかけ、吾が迷子にあはせたまへと、涙ながらに舎を立出て、白井峠をこへ、遥々と此里までさまよし来りしが、日暮て借るべき舎もなければ、草を茂みに倒れふし、暫しまどろむ所に、後に聲ありて呼ぶこと頻なりしかば、あはや尋る吾が子の聲よど起き上れば、光明かくやくとして、忍辱慈悲の衣の下に、件の迷子を覆い隠し、尊容忽然として現したまひ、汝が愛子大魔高津鳥の災ひ罹りて苦しみしが、汝切に吾を祈により、われ廿八部衆に命じ、とり反して汝にあたふ、猶信心怠ることなかれと云、畢て所在を失ひぬ、斯て夜も明けぬれば、里人来て始終の物語を聞て、各奇異の思をなし、一時に闔境来り聚り、本尊の靈場今更云に及ばずと雖も、かゝる不思議をみること、よと菩薩の妙智力を歎じ、各老嫗を本願主として、堂舎再興のことを計り、不日に落成して、殿堂荘厳忽ち舊觀に復せり、爾しより土人呼で、子反の觀音と稱せり、詠歌に曰、父母の惠も深きこかの堂、大慈大悲の誓ひたのもし、
別當長興寺
村内小名宮の下にありて兼帶せり、觀音堂も元は長興寺の境内にありしを、享保五年にこゝに移すと云、長光寺のことは末に別記す
奥院。十六善神を安ず、
札堂。地蔵を安ず、
地蔵堂。
寮。觀音の堂もりこゝに居る(新編武蔵風土記稿より)
語歌寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿