古凍熊野神社。熊谷市相上から来た須長家が勧請
古凍熊野神社の概要
古凍熊野神社は、東松山市古凍にある神社です。古凍熊野神社の創建年代等は不詳ながら、熊谷市相上の須長長春が孫の義清を連れて当社を勧請したと伝えられ、年代は室町時代ころではないかといい、現在に到るまで須長家が管理しているそうです。なお当社は、おくま山古墳と呼ばれる前方後円墳上に鎮座、遅くとも6世紀はじめには築造された古墳だといいます。
社号 | 熊野神社 |
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祭神 | 熊野大権現 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 東松山市古凍499 |
備考 | - |
古凍熊野神社の由緒
古凍熊野神社の創建年代等は不詳ながら、熊谷市相上の須長長春が孫の義清を連れて当社を勧請したと伝えられ、年代は室町時代ころではないかといい、現在に到るまで須長家が管理しているそうです。
新編武蔵風土記稿による古凍熊野神社の由緒
(古氷村)
該当記載無し(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による古凍熊野神社の由緒
鷲神社<東松山町古凍四九九(古凍字宮前)>
大里村相上の吉見神社社家である須長家の先祖が、寛永二年(一六二五)に著した「須長家由緒書」によれば、家督を譲った須長長春が孫の義清を連れて古氷村に移り住み、義清は古氷定右衛門尉と名乗り、村の鎮守として熊野大権現(現在須長一族の氏神)と鷲宮大明神(当社)を勧請し、更に菩提寺として慈雲寺を建立したという。「同家系図」の代々の没年から推すに、その年代は室町時代の中期と思われる。社殿にある治承二年とは三〇〇年余の隔たりが見られるが、あるいは衰微していた当社を同家で再興したことを示すのかもしれない。
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地内の熊野山古墳の上には、熊野神社が祀られている。須長竹雄家所蔵の元文四年(一七三九)「熊野三社権現宮造立記録」によると、同社は須長家の先祖が創建し、氏神として代々須長与左右衛門家で維持してきたが、元文四年の修造に当たっては須長一族で九両余りの費用を分担して出し合い、以後の修造費用の工面はこのやり方に倣うこととしている。現在、元旦に須長一族が集まり、山の上で元旦祭を行っている。 (「埼玉の神社」より)
古凍熊野神社の由緒
- おくま山古墳(東松山市指定文化財)
おくま山古墳
この古墳は、都幾川と市ノ川に挟まれた東松山台地の南東部で、台地が川島方向へ舌状に張り出した中央に立地しています。周辺には円墳など十三基の古墳が残っており、柏崎古墳群と呼ばれています。この古墳を代表する古墳のひとつです。
古墳は、丸く高い後円部(円丘)と低く裾を拡げる前方部(方丘)からなる、前方後円墳と呼ばれるものです。墳丘の規模は全長六二m、高さ七m、この周りに幅が広い濠(約一〇m、深さ一.七m)が巡らされ、現在でもその西側には、濠跡が窪んでみえています。 昭和六一年と平成七年の二回、濠の部分の発掘調査が行われ、人物埴輪(盾持ち人四体)や円筒埴輪が出土しました。盾を構えて立つ武人の埴輪は、この古墳に葬られた主人を守っていたと考えられます。
平成七年の調査では、群馬県榛名山二岳の噴火による火山灰が、古墳を巡る濠跡に薄く積もっていたことが確認されました。この火山灰は六世紀のはじめ頃、関東の南東地域に広く積もったことがわかっています。 この火山灰や出土した埴輪などから、この古墳が造られたのは、六世紀はじめ頃までと推定されています。(東松山市教育委員会掲示より)
古凍熊野神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)