松山神社。氷川社に熊野神社を合祀、松山宿の総鎮守
松山神社の概要
松山神社は、東松山市日吉町にある神社です。松山神社の創建年代等は不詳ながら、康平6年(1063)に大宮氷川神社を勧請して創建したと伝えられ、氷川社と称していました。寛永元年(1624)には熊野神社(祭神伊邪那美命)を合殿に祀り、松山宿の総鎮守として崇敬を集めていたといいます。明治6年に村社となり、明治16年社号を氷川神社熊野神社から松山神社と改め、昭和20年郷社に列格したといいます。
社号 | 松山神社 |
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祭神 | 素戔嗚尊 |
合祀 | 伊邪那美命 |
境内社 | 浅間神社 |
祭日 | 例祭日10月18・19日 |
住所 | 東松山市日吉町5-19 |
備考 | - |
松山神社の由緒
松山神社の創建年代等は不詳ながら、康平6年(1063)に大宮氷川神社を勧請して創建したと伝えられ、氷川社と称していました。寛永元年(1624)には熊野神社(祭神伊邪那美命)を合殿に祀り、松山宿の総鎮守として崇敬を集めていたといいます。明治6年に村社となり、明治16年社号を氷川神社熊野神社から松山神社と改め、昭和20年郷社に列格したといいます。
新編武蔵風土記稿による松山神社の由緒
(松山町)
氷川社
宿並の鎮守なり、熊野を相殿とす、勧請の始を詳にせず、貞享二年再興、大旦那嶋田八郎左衛門と記せし棟札あり、觀蔵寺持、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による松山神社の由緒
松山神社<東松山市日吉町五-一九(松山町字日吉町)>
旧松山宿の北部に位置する上沼の西南端から、西に続く長い参道を入って行った所に、杜に包まれて当社は鎮座している。そのため、市街地の中の神社にしては閑静で落ち着いた雰囲気があるところから、当社は上沼公園と共に憩いの場として、また、散策の場として市民に親しまれており、祭日以外でも境内を訪れる人は多い。
武蔵国一の宮の氷川神社(大宮市鎮座)に代表されるように、古くから荒川の流域の町や村では、氷川神社が多く祀られてきた。毎年のように繰り返される荒川の氾濫を鎮めるためには、氷川様(須佐之男命)のように霊威の強い神を祀ることが必要であったという話を伝えとして耳にすることが多い。当社もまた、そのようにして祀られた社の一つであると考えられ、その創建は、今を去ること九〇〇年余りの昔、康平六年(一〇六三)にさかのぼると伝えられている。
中世、この松山の地は、亀井荘松山領の本郷として、また、松山城の城下として栄え、近世に至っては中山道の脇往還の宿場としてますますその規模を拡大していった。そうして成立したのが旧松山町(明治二十二年の町村制の施行によって誕生した松山町の大字松山町となる)であり、この地域の商業と交通の中心地として繁栄した。中世から近世初頭にかけての当社の動向については、相次ぐ戦乱により記録が失われてしまったためか明らかではないが、寛永元年(一六二四)に熊野神社(祭神伊邪那美命)を合殿に祀り、以来、松山宿の総鎮守として一層の崇敬を集めるようになったという。
その後、貞亨二年(一六八五)には当地の領主である旗本の島田八郎左衛門によって社殿が再建され、同時に社域を除地とした上、神領が付された。このように領主の厚い信仰を得て神威を高めた当社は、正徳四年(一七一四)十一月には神祇管領卜部家から極位も受けている。下って文化八年(一八一一)、当地は川越藩の領するところとなり、藩主松平大和守は先例に倣い、当社を保護した。「氷川社 宿並の鎮守なり、熊野を相殿とす(中略)大旦那嶋田八郎左衛門と記せし棟札あり、観蔵寺持」という『風土記稿』の記事は、そのころの様子を記したものである。また、松山宿の繁栄につれ、住民の力も増していき、嘉永二年(一八四九)の社殿再建は、惣氏子の手によって行われている。
神仏分離を経て明治六年に村社となった当社は、同十六年四月に至り、社号氷川神社熊野神社(合殿)を松山神社と改めた。これは、松山宿の総鎮守として祀られてきた当社を松山町の象徴として盛り立てていこうという氏子の気持ちを反映したものであり、時の神道総裁有栖川宮幟仁親王から額字も拝戴している。更に明治四十一年には神饌幣帛料供進神社の指定を受け、昭和二十年には郷社に昇格した。(「埼玉の神社」より)
松山神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)