唐子神社。東松山市下唐子の神社

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唐子神社。東松山市下唐子の神社

唐子神社の概要

唐子神社は、東松山市下唐子にある神社です。唐子神社は、時の領主左兵衛佐藤原重時が、秩父郡椋神社の分霊を勧請して応永18年(1411)に白髭大明神と称して字坂東に創建したといいます。徳川家康の関東入国後には、地頭菅沼越後守定吉が慶長9年(1604)に社殿を再建、都幾川の氾濫を避けるため、菅沼吉広が天和2年(1682)当地へ遷座しています。明治維新後の社格制定に際し明治4年村社に列格、明治5年に伊奈利神社を合祀、明治44年に字法養寺の諏訪神社、字滝下の粟島神社、字内手の稲荷神社、字久保の八幡神社を合祀し、唐子神社と改称しています。

唐子神社
唐子神社の概要
社号 唐子神社
祭神 猿田彦命
相殿 -
境内社 諏訪社・稲荷社、愛宕社・神明社、七鬼社、三峰社、薬師社・八幡社
祭日 諏訪祭り7月26・27日、
住所 東松山市下唐子995
備考 -



唐子神社の由緒

唐子神社は、時の領主左兵衛佐藤原重時が、秩父郡椋神社の分霊を勧請して応永18年(1411)に白髭大明神と称して字坂東に創建したといいます。徳川家康の関東入国後には、地頭菅沼越後守定吉が慶長9年(1604)に社殿を再建、都幾川の氾濫を避けるため、菅沼吉広が天和2年(1682)当地へ遷座しています。明治維新後の社格制定に際し明治4年村社に列格、明治5年に伊奈利神社を合祀、明治44年に字法養寺の諏訪神社、字滝下の粟島神社、字内手の稲荷神社、字久保の八幡神社を合祀し、唐子神社と改称しています。

新編武蔵風土記稿による唐子神社の由緒

(下唐子村)
白髭社
村の鎮守とせり、教覺院持、
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稲荷社
同持、
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教覺院
本山修験にて、松山町觀音寺配下、本尊不動を安ず、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による唐子神社の由緒

唐子神社<東松山市下唐子一〇〇八(下唐子字滝下)>
下唐子は、都幾川右岸の岩殿丘陵の台地・低地に位置している。古くから開かれた所で、『関東合戦記』永享十二年(一四四〇)の村岡合戦の条に「長棟菴主は七月八日神奈川を立ち、野本、唐子に逗留し、同八月九日小山庄祗園城に着玉ひ」とその名が見える。元禄年間(一六八八-一七〇四)までには上下に分村したという。
社伝によると、当社の創建は応永十八年(一四一一)九月十八日のことで、時の領主左兵衛佐藤原重時が秩父郡の椋神社の分霊を地内の字坂東に奉斎し白髭大明神と称した。慶長九年(一六〇四)には、地頭菅沼越後守定吉が社殿を再建した。ちなみに、菅沼氏は同時期に浄空院と称する曹洞宗の寺院を唐子(現上唐子)地内に建立している。
その後、当社の社地は都幾川の氾濫に度々襲われたため、天和二年(一六八二)に地頭菅沼吉広が社地を字坂東から現在の地に移し、家臣の黒田市郎左衛門を惣代人に任じ社殿を造営した。
享保十八年(一七三三)神祇管領から正一位に叙せられ、寛保元年(一七四一)には代官中村甚五佐衛門が本殿の覆屋を建立するとともに大門に石階五四段を寄進したという。
『風土記稿』は「白髭社 村の鎮守とせり、教覚(学)院持」と載せる。これに見える教学院は当社西側に居を構える現神職渡辺家の先祖で、松山町観音寺配下の本山派修験であった。
教学院の活動を知る史料に天明六年(一七八六)の「唐子村修験教学院護摩堂建立万人講勧化帳」(東松山市神戸の大野与一家文書)がある。これによると、序文のあとに唐子村名主・組頭(四名)・壇方惣代の六名が連署して、「勧化往来中、乍御世話御案内之人御頼申上候、猶亦暮ニ及候節ハ、各村々御志ヲ以止宿被仰付可被下候」と教学院の勧化往来中の世話・案内・止宿を依頼し、聖護院末の幸手不動院組の本山修験年行事を勤める松山町観音寺が奥院をしている。そのあと下唐子の名主と重立百姓八名及び下唐子村中が勧化の金額をそれぞれ記入した上で、比企・大里・秩父・高麗・入間の各郡の村々を巡り勧化の金額を記してもらっている。また村ごとに必ず「人足壱人添」とあり、要請通り次村継送りの世話・案内をしていることがわかる。
明治四年に村社になった当社は、同五年に字高本の無格社伊奈利神社を合祀し、同四十四年には字法養寺の諏訪神社、字滝下の粟島神社(教学院の屋敷にあった薬師堂)、字内手の稲荷神社、字久保の八幡神社の無格社四社を合祀し、村名を採って社名を唐子神社と改めた。(「埼玉の神社」より)


唐子神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)