松葉町八幡神社。東松山市松葉町の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

松葉町八幡神社。松山陣屋で祀られていた社

松葉町八幡神社の概要

松葉町八幡神社は、東松山市松葉町にある神社です。松葉町八幡神社は、越前松平家が姫路藩主だった寛文7年(1667)に姫路男山に創建、越前松平家の移転に伴い前橋へ、次いで川越へ遷座、慶応元年(1865)設置された松山陣屋へ遷座したといいます。明治維新後の明治4年に陣屋は廃止され、陣屋内の鉄砲場跡地(当地)に遷し祀られているといいます。

松葉町八幡神社
松葉町八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 誉田別尊
相殿 大雷大神、山田鏗次郎命
境内社 子育稲荷
祭日 祈念祭4月15日(大雷大神)、秋祭9月15日、節分会
住所 東松山市松葉町1-25-4
備考 -



松葉町八幡神社の由緒

松葉町八幡神社は、越前松平家が姫路藩主だった寛文7年(1667)に姫路男山に創建、越前松平家が姫路から前橋(川越)へ転封となった際に前橋へ遷座、前橋城が水害により倒壊し川越城へ移った際に、当社も川越へ遷座、慶応元年(1865)に前橋城が完成した際に藩主は前橋へ移転したものの、比企郡の領地を掌握するため当地に松山陣屋を設置、当社は松山陣屋で祀られていたといいます。明治維新後の明治4年に陣屋は廃止され、陣屋内の鉄砲場跡地(当地)に遷し祀られているといいます。陣屋の藩士だった山田鏗次郎は、陣屋の旧藩士を募って西南の役に従軍し戦死、同志が遺髪を持ち帰り当社で招魂祭を執行、招魂社が建立されたそうです(招魂社は昭和14年護国神社と改称、戦後本殿に合祀)。

新編武蔵風土記稿による松葉町八幡神社の由緒

(松山町)
該当記載なし(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による松葉町八幡神社の由緒

八幡神社<東松山市松葉町一-二五-四(松山字松葉町)>
当社は、播磨国姫路から上野国前橋に転封された松平氏と共にある神社で、藩士から武神として厚く信仰された。社伝によると、寛文七年(一六六七)に藩士が姫路の男山に社殿を建てたことから男山八幡と呼ばれ、藩主から二石の供料を下賜され、祭祀は井上蔵人なる者が行ったと伝える。
松平藩主松平朝矩が姫路から前橋に転封されたのは、寛延二年(一七四九)のことである。この時、前橋城は利根川の乱流により一部破壊されていたので、明和五年(一七六八)幕府の許しを得て川越城に入居し、同六年(一七六九)前橋城を廃城とした。最後の藩主松平直克は、居城を川越城から本来の前橋に移すことを希望し、慶応元年(一八六五)に前橋城が完成するに伴い、前橋へ移転した。しかし、この時期、前橋藩二〇万七五六五石のうち比企郡に六万石余が残ったことから、これを支配するため、松山陣屋が置かれた。
このような藩の事情から当社も前橋・川越と次々遷座を迫られ、最後に松山陣屋(松葉町一丁目)に落ち着いたわけである。社殿は初め松山陣屋内の五番銃隊のそばに祀られたが、明治四年の廃藩置県後、陣屋が廃されたため、同じ陣屋内の鉄砲場跡に移され、現在に至っている。なお、祀職は、明治初年から平成元年まで松山町の鯨井家が奉仕し、その後を上野本の前原家が継いでいる。(「埼玉の神社」より)


松葉町八幡神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)