野田赤城神社。市指定民俗文化財野田の獅子舞
野田赤城神社の概要
野田赤城神社は、東松山市野田にある神社です。野田赤城神社は、当地の草分けで名主家長谷部家の先祖右内清信が文亀2年(1502)に長谷部家のの守護神として奉斎したといいます。永正2年(1505)に松山城主上田氏から村名野田を賜った際、赤城大明神を野田村の鎮守と定め、祀られてきました。当社夏祭・秋祭に奉納される野田の獅子舞、獅子舞で使用される獅子頭は、東松山市民俗文化財に指定されています。
社号 | 赤城神社 |
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祭神 | 大己貴命、豊城入彦命、彦狭島命 |
相殿 | - |
境内社 | 八雲神社、菅原神社 |
祭日 | 天神祭1月25日、春祭り4月15日、夏祭り7月15日、例祭10月14日、秋祭り11月23日 |
住所 | 東松山市野田455 |
備考 | - |
野田赤城神社の由緒
野田赤城神社は、当地の草分けで名主家長谷部家の先祖右内清信が文亀2年(1502)に長谷部家のの守護神として奉斎したといいます。永正2年(1505)に松山城主上田氏から村名野田を賜った際、赤城大明神を野田村の鎮守と定め、祀られてきました。明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治41年字西野の八雲神社、後田の菅原神社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による野田赤城神社の由緒
(野田村)
赤城社
村の鎮守なり、當山派修験、教善院持、
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天神社
村持(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による野田赤城神社の由緒
赤城神社<東松山市野田四五五(野田字東野)>
野田は、荒川支流の滑川沿いに開かれた農業地域で、市の北部に位置し、その開発は戦国時代と伝えられている。当社は、社記によれば草分けである長谷部家の先祖右内清信が文亀二年(一五〇二)二月に同家の守護神として赤城大明神を奉斎したことに始まるという。
当時この地にも、人々が次第に集まり、村は大きくなっていた。しかし、村全体で祀る鎮守はまだなく、人々は、上野家は神明社、高橋家は稲荷社というように一家(一族)ごとにそれぞれ氏神を祀り、祭りを行ってきた。永正二年(一五〇五)正月四日、松山城主上田氏から野田という村名を賜ったが、これを機に、村民は協議の上、赤城大明神を野田村の鎮守と定め、同月社殿を再建した。ここに当社は、草分けの長谷部家の守護神から野田村全体の鎮守となり、多くの人々から信仰されるようになったのである。
境内の石碑によれば、永正二年一月に本殿が建造され、宝暦十一年(一七六一)十二月に覆屋を建立した際、改修されたと伝えるが、現在の本殿の建造年代については定かではない。また、拝殿は安政元年(一八五四)の春に降雨を祈願して池を掘ったところ願が叶い、翌年の秋に大願成就の意をもって設けられたものであると伝えている。しかし、長い歳月を経て、覆屋・拝殿共に傷みが激しくなってきたため、氏子一同協議の結果、昭和三十七年十月、これらを再建した。(「埼玉の神社」より)
野田赤城神社所蔵の文化財
- 野田の獅子舞(市指定無形民俗文化財)
- 野田の獅子頭(市指定有形民俗文化財)
野田の獅子舞
野田の獅子舞は毎年七月十四日の夏祭、十月十四日の秋祭に赤城神社に奉納される。
獅子舞の由来は、今から三百數十年前寛永年間にこの地の名主長谷部平兵衛福兼によって始められたと伝えられている。
獅子を「メジシ」「オジシ」「ダイガシラ」と呼び、袴に白足袋姿で八畳程の敷物の上で舞う一人立ちの三匹獅子舞で座敷獅子と云われている。(東松山市教育委員会掲示より)
野田の獅子頭
代々獅子元を務める長谷部家に、寛永年間の作と云われる獅子頭が残っている。竜頭形式の獅子頭で、桐材を用いた素朴なものである。(東松山市教育委員会掲示より)
野田赤城神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)