野本八幡神社。東松山市上野本の神社

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野本八幡神社。市指定無形民俗文化財上野本の獅子舞

野本八幡神社の概要

野本八幡神社は、東松山市上野本にある神社です。野本八幡神社の創建年代等は不詳ながら、当初雷電社として祀られていたといいます。天正18年(1590)に徳川家康が関東入国、渡辺重綱が地頭となってからは、渡辺家の祈願所となっていたといいます。江戸期には野本村在家の鎮守として祀られ、また近郷のへの触頭を勤めていたといいます。当社で奉納される上野本の獅子舞は、市の無形民俗文化財に指定されています。

野本八幡神社
野本八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 大山咋命
相殿 -
境内社 天神
祭日 例祭8月26日(おすわさま)
住所 東松山市上野本1812
備考 -



野本八幡神社の由緒

野本八幡神社の創建年代等は不詳ながら、当初雷電社として祀られていたといいます。天正18年(1590)に徳川家康が関東入国、渡辺重綱が地頭となってからは、渡辺家の祈願所となっていたといいます。江戸期には野本村在家の鎮守として祀られ、また近郷のへの触頭を勤めていたといいます。

新編武蔵風土記稿による野本八幡神社の由緒

(野本村)
八幡社
在家の鎮守なり、氷川雷電を相殿とす、當社往古は雷電社一社にして、祭神別雷の神なり、然るに白鳳元年志貴廣豊といへる人、八幡を勧請し、後又氷川を合祀せりと云傳ふれど、白鳳中の配祀など云こと甚疑ふべし、遥の後天正年中地頭渡邊忠右衛門より、八幡免田を寄附し、寛文二年再興ありしと云、
神主布施大和。吉田家の配下なり、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による野本八幡神社の由緒

八幡神社<東松山市上野本一八一二(上野本字主林名)>
当社の事跡について『風土記稿』は、「在家(上野本の小名)の鎮守なり、氷川雷電を相殿とす、当社往古は雷電一社にして、祭神別雷の神なり(後略)」と載せる。雷電社の史料は見当たらないが、比企丘陵という立地から、降雨並びに水利を司る神として村人に祀られていたのであろう。
天正十八年(一五九〇)、徳川家が関東に移封され、その家臣渡辺重綱が当地に陣屋を構えてからは、当社は渡辺家の武運長久の祈願所となった。
「野本郷惣鎮守八幡宮由来書」(下野本の屋代和敬氏所蔵)によると、渡辺忠右衛門重綱は初めて野本の地頭となった際、八幡神田地一町五反歩、氷川神に田地一反六畝歩を寄進している。その後、重綱の跡を継いだ吉綱は心願祈誓したところ願が叶い、寛文元年(一六六一)に大名に取り立てられたので、毎年八幡神には祭礼米一〇俵三斗、氷川神には供米八斗八升を寄進し、翌年には社殿を造営している。当社に神職が置かれるようになったのは、祈願所として神社の体裁が整った、このころであると思われる。
元禄十二年(一六九九)、吉綱が所替えとなり、当地は御料所・大嶋長門守・三間大隅守・黒田玄蕃の四給となった。この折、当社境内地は、この四領主の分割支配となったことから、当社神職の弥三郎(後の布施田氏)は高坂村矢剣明神神主大嶋長門守に従来通り境内地無年貢の願いを提出している。
布施田氏が吉田家の配下となったのは、享保六年(一七二一)で、この年、矢剣明神神主の大嶋下総守の取次ぎで初めて神道裁許状を拝受し、以後、布施田大和と名乗るようになった。明和五年(一七六八)布施田大和の跡を襲った長子采女(後に大和を名乗る)は、和泉国伯太藩主渡辺信綱用人に、吉田家任官のための諸費用下賜願を出している。従来からこの父子の心願するところは、上京して直接、吉田家から任官を受けることであった。しかし、路銀、任官金、取次付届け、官服金、京都逗留金などを含めると、三五両余りにもなったため、手元不如意から困惑していた。この中で一五両余りは、従来の無尽(積立金)と氏子衆の勧化で賄うが、残りの二〇両は一生の大願なので慈悲を持って下賜してもらいたいとの旨を、七十年前まで野本村の領主であった渡辺氏に懇願している。
神職に就いて間もない布施田家にとって江戸吉田役所から許状を受けることより、直接上京して神道裁許状を拝受することが、周辺の神職仲間や地元の氏子衆に対して自らの立場を安定させることであった。なお、経費節約のため、この上京は村の伊勢講中と共に同行しており、神職の苦労が偲ばれる。
当地一帯の触頭は、本来、高坂村の大嶋下総守であったが、これの死去の後、継ぐべき者がなく、次第に布施田家が触頭のような立場になり、近隣の村々の神職、神子を配下に置くようになった。寛政五年(一七九三)には、布施田大和が大谷村の妻である神子「松翁」に当社の下社家配下門弟として、六根清浄大祓、神拝、神楽等の参勤を許す裁許状を吉田家の権威を背景に私的に出している。
采女の後を継いだ三代目布施田大和は、文政七年(一八二四)、江戸役所から、当社の四月一日と九月十五日の祭礼のほかに、毎月一日の祈願に限って「衣冠を着すべし」との許状を受けた。また、九月には、最寄りの神職が心得違いをせぬよう「見廻役」を申し付けられた。これは、吉田家が村々の祭祀についても自らの宗門に組み込もうとした意図の下に行われた。(「埼玉の神社」より)


野本八幡神社所蔵の文化財

  • 野本八幡神社の絵馬(市指定有形文化財)
  • 上野本の獅子舞(市指定無形民俗文化財)

野本八幡神社の絵馬

明治二五年(一八九二)、都幾川の堤防工事(明治二二~二四年)の完成を記念して、その労苦を後世に伝えるとともに、将来に渡って洪水から野本耕地が守られることを願って、拝殿に奉納されています。
絵馬には、奉納のいきさつ(漢文)と当時の土手普請の様子が細かく描かれています。
絵は山口曲山、漢文は嵩古香によるもので、いずれも野本出身の文人です。(東松山市教育委員会掲示より)

上野本の獅子舞

一〇月一五日に近い日曜日、ここ八幡神社の秋祭りに厄除け、家内安全、五穀豊穣の感謝の奉納舞として行われます。一人立ちの三匹獅子舞で、舞の構成は「ドヒヤリ」・「三匹ぞろい」の二曲形式で、「街道くだり」・「雌獅子隠し」・「歌の舞」となっています。獅子舞に先立ち、二人の青年によって「出棒」、「ずり棒」、「込め棒」の棒術が行われるのが特色となっています。「宝暦二年」(一七五二)銘の貼り紙を持つ太鼓や神社明細帳に「嘉永五年獅子頭再調」(一八五二)から少なくとも江戸時代後期には獅子舞が行われていたといわれています。(東松山市教育委員会掲示より)

野本八幡神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)