大谷秋葉神社。東松山市大谷の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

大谷秋葉神社。東松山市大谷の神社

大谷秋葉神社の概要

大谷秋葉神社は、東松山市大谷にある神社です。大谷秋葉神社は、徳川家康の関東入国後に当地の領主となった旗本森川氏が、万治元年(1658)に勧請したといいます。享保2年(1717)の江戸大火に際し、森川氏の江戸屋敷が災禍を免れたことから、当地近隣の信仰を幅広く集めたと伝えています。

大谷秋葉神社
大谷秋葉神社の概要
社号 秋葉神社
祭神 火之迦具土神
相殿 -
境内社 -
祭日 例祭4月18日
住所 東松山市大谷553
備考 -



大谷秋葉神社の由緒

大谷秋葉神社は、徳川家康の関東入国後に当地の領主となった旗本森川氏が、万治元年(1658)に勧請したといいます。享保2年(1717)の江戸大火に際し、森川氏の江戸屋敷が災禍を免れたことから、当地近隣の信仰を幅広く集めたと伝えています。

境内掲示による大谷秋葉神社の由緒

秋葉神社は、この地の旗本森川氏が万治元年(一六五八)に勧進した神社です。享保二年(一七一七)正月二十二日の江戸本郷の大火の折、同所にあった森川氏屋敷に、この秋葉神社のご祭神の神像が飛来し、屋敷を延焼から守り無事大火から免れたという伝承が残っています。その後、広く近隣の人々からも信仰され、特に例祭(四月十八日)や酉の日には近郷近在の人々で大変な賑わいをみせたといいます。
松山宿からこの神社への経路は秋葉道と呼ばれました。幅九尺(約二・七m)の道路で要所々々に道標も建てられ、大谷地域から松山宿への往来にはこの道が使われました。(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による大谷秋葉神社の由緒

(大谷村)
該当記載なし(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による大谷秋葉神社の由緒

秋葉神社<東松山市大谷五四四(大谷字須ケ谷)>
鎮座地は、大谷の集落北方の小高い丘の突端にある。近くには、江戸期を通じて当社を累代崇敬した森川氏の陣屋跡がある。
森川氏は徳川の旗本で、天正十八年(一五九〇)に家康に従って関東に入り、当地に領地を得て陣屋を構えた。当社を勧請したのは、森川金右衛門であると伝え、その本社は、遠江国の秋葉大権現社で、火防の神として知られる。
享保二年(一七一七)正月に起こった江戸本郷大火の際には、当社の霊験が現れ、森川氏の江戸屋敷だけ、野原に孤島のように焼け残った。これは日頃崇敬する秋葉大権現のお陰であると感謝した森川氏は、享保十五年(一七三〇)に老朽化した当社の社殿を造営するとともに、毎年、御供米一俵を寄進するようになった。
江戸期、当社の運営は、江戸の青山鳳閣寺末の当山派修験長谷山成就院東海寺と村方の者で行われていたが、明治初年の神仏分離により、成就院は復飾して当社の祭祀から離れた。代わって、大谷野田の修験大行院が復飾して加藤大膳と名乗り、神職と成って当社に奉職した。明治元年、村役人に提出した大膳の請書には「私儀は神主名目計りにて、秋葉社の儀は子々孫々に至るまで村持にて先規仕来りの通り、何事によらず村御役人中へ御願申上、御差図請、自己の取計へ決て仕間敷候」とあり、復飾して間もない神職の立場がうかがえる。(「埼玉の神社」より)


大谷秋葉神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)