大雷神社。東松山市大谷の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

大雷神社。三千塚古墳群の雷電山古墳上に鎮座

大雷神社の概要

大雷神社は、東松山市大谷にある神社です。大雷神社の創建については二説紹介されており、社伝では貞観元年(859)に創建、『三代実録』に記載されている「若雷神従五位上」が当社であるといいます。もう一説の明治維新後に作成された「神社明細帳」では、雷電坊の僧侶祖恵弁宝が、大治元年(1126)に大雷命を祀って創建したと記しています。当社は三千塚古墳群の中心となる雷電山古墳上に鎮座、雷電山古墳は五世紀初頭の造立とされることから、古代より祭祀が行なわれていたものと思われますが、当社との継続性については確認されていません。二説いずれにしても鎌倉時代には、雨乞いの神として祀られ、江戸期には大谷の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格していました。

大雷神社
大雷神社の概要
社号 大雷神社
祭神 若雷命
相殿 -
境内社 -
祭日 例祭4月12日、田植終了奉告祭、夏祭り7月20日、新嘗祭10月17日
住所 東松山市大谷3506
備考 -



大雷神社の由緒

大雷神社の創建については二説紹介されており、社伝では貞観元年(859)に創建、『三代実録』の貞観6年条に記載されている「武蔵国従五位下若雷神従五位上」が当社であるといいます。もう一説の明治維新後に作成された「神社明細帳」では、雷光山消跡雷電坊の僧侶祖恵弁宝が、大治元年(1126)に大雷命を祀って創建したと記しています。当社は三千塚古墳群の中心となる雷電山古墳上に鎮座、雷電山古墳は五世紀初頭の造立とされることから、古代より祭祀が行なわれていたものと思われますが、当社との継続性については確認されていません。二説いずれにしても鎌倉時代には、雨乞いの神として祀られ、江戸期には大谷の鎮守として祀られ、江戸時代には奉納相撲が行われ、寛政年間(1789-1801)には江戸の両大関が揃う盛大なものだったといいます。

新編武蔵風土記稿による大雷神社の由緒

(大谷村)
雷電社
雷電山と號せる山の上にあり、村内の鎮守なり、村持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による大雷神社の由緒

大雷神社<東松山市大谷一五〇六(大谷字長坂)>
『武蔵志』は、大谷村の項で、当社について「社地ハ巒山ノ内 高キ所ナリ 遠キ境ヨリ松樹繁リ 覆椀ノ如ニ見ユル 夏日雲ヲ催シ雷鳴スレトモ 雨少ク雹ヲ降ラス故ニ遠近ノ民大ニ怖ル 古今相同」と触れている。これは、簡潔ではあるが、当社の景観をよく言い表した文章と言えよう。この文中に「覆椀ノ如」とあるのは、「帆立貝式」と呼ばれる一種の前方後円墳(前方部が後円部に比べて極端に小さい)の墳丘の形容であり、当社の社殿は、雷電山古墳(昭和三十一年市指定史跡)と呼ばれ、五世紀に築造されたと推定されるその墳丘上に築かれている。また、社殿の周囲からは、埴輪や土器などが数多く出土しており、その主なものは公民館に展示されてるので、容易に見ることができる。
社伝によれば、当社の創建は貞観元年(八五九)四月十二日のことで、『三代実録』貞観六年(八六四)七月の条に載る神階を授与された神々の中で、「武蔵国従五位下若雷神従五位上」と見えるのが当社であるという。この若雷神は『延喜式』神名帳の登載からは外れており、その比定する社については諸説あるが、当社が鎮まる雷電山古墳やその付近一帯に散財する三千塚古墳の存在から、ここに埋葬された首長層とのかかわりの中で語られてきた伝えであろう。また、この地は山間の地であるため、古代から水利の便が非常に悪く、五穀の実りも悪かったが、大雷命を祀って以来五穀もよく実るようになり、盛夏干ばつの折には村民を挙げて降雨祈願を行ったとの伝承がある。
一方、『明細帳』由緒の項に記されている古老の口碑は、これとは違うものである。それによると、当社の由緒は、「旧字雷光山消跡雷電坊之祖恵弁宝名僧ニシテ雷ノ神ヲ使フ事妙也 依リテ大治元年午(一一二六)六月廿日大雷命ヲ祀リ雷電大権現ト請シ日テリノ際雨ヲ降ラス事願成就速カニシテ云々」となっており、この口碑に従えば、当社の創建は鎌倉時代のこととなる。ただし『風土記稿』を見ても、「雷光山」「雷電坊」「恵弁」などの名は見当たらず、当社も「村持」となっているため、雷電坊が存在した事実は確認できていない。
江戸時代、当社は少なくとも二回再建されている。一度は寛政十年(一七九八)四月二十五日のことであり、この時には近郷近在二七か町村の人々によって再建が行われたと伝えられる。しかし、安政四年(一八五七)には近くに起こった山火事が元で炎上してしまい、それから五年の歳月をかけて再建されたのが現在の社殿である。なお、この火災の時、神体として本殿に奉安されていた御幣は、自ら社外に飛び出し、焼失の難を免れたため、当社に対する村民の崇敬の念はますます深まったといわれる。ちなみに、この御幣は現在も本殿内に奉祀されている。(「埼玉の神社」より)


大雷神社所蔵の文化財

  • 三千塚古墳群(市指定史跡)

三千塚古墳群

大岡地区には、雷電山古墳を中心として、数多くの小さな古墳が群集しています。これらの多くの古墳を総称して「三千塚古墳群」と呼んでいます。
三千塚古墳群は、明治二十年~三十年頃にそのほとんどが盗掘されてしまいました。そのときに出土した遺物は、県外に持ち出されてしまい不明ですが、一部は国立博物館に収蔵されています。三千塚古墳群からは、古墳時代後期(六~七世紀)の古墳から発見される遺物(直刀・刀子・勾玉・菅玉など)が出土しています。
雷電山古墳は、これらの小さな古墳を見わたす丘陵の上に造られています。この古墳は、高さ八m、長さ八十mの大きさの帆立貝式古墳(前方後円墳の一種)です。雷電山古墳からは、埴輪や底部穿孔土器(底に穴をあけた土器)などが発見されています。
雷電山古墳は、造られた場所や埴輪などから五世紀初頭(今から千五百年位前)に造られたものと思われます。また、雷電山古墳の周辺にある小さな古墳は、六世紀初頭から七世紀後半にかけて、造られつづけた古墳であると思われます。(東松山市教育委員会掲示より)

大雷神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)