足利基氏の塁跡。岩殿山合戦に際して陣を敷いた地
足利基氏の塁跡の概要
足利基氏の塁跡は、東松山市岩殿にある名所旧跡です。足利基氏の塁跡は、足利尊氏の次男基氏が芳賀高貞と戦った岩殿山合戦に際して陣を敷いたとされる跡地です。足利基氏は当地には長期逗留せず、下野国へ陣を進めていることから、地元豪族の館を陣地として利用したのではないかといいます。
旧跡・名所名 | 足利基氏の塁跡 |
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みどころ | 東松山市指定文化財 |
入場時間 | - |
入場料 | 無料 |
住所 | 東松山市岩殿 |
備考 | - |
足利基氏の塁跡の縁起
足利基氏の塁跡は、足利尊氏の次男基氏が芳賀高貞と戦った岩殿山合戦に際して陣を敷いたとされる跡地です。足利基氏は当地には長期逗留せず、下野国へ陣を進めていることから、地元豪族の館を陣地として利用したのではないかといいます。
新編武蔵風土記稿による足利基氏の塁跡について
(岩殿村)
壘蹟
鎌倉基氏の陣壘と云、按に【櫻雲記】に貞治八年八月基氏武州岩殿山にて、芳賀伊賀守高貞入道禅可と、合戦ありし由を載す、此頃の壘蹟なるべし、又簗田家譜に、公方基氏比企郡之内岩戸山一戰に、利を失はれし時、簗田右京亮經助粉骨を圸て、翌日大利を得たる功によりて、下武蔵小澤郷拝領と見えたり、此岩戸山と書しは、岩殿山の訛ならん、(新編武蔵風土記稿より)
東松山市教育委員会掲示による足利基氏の塁跡について
足利基氏は、鎌倉公方と呼ばれ、南北朝時代に活躍した武将で、足利尊氏の次男として暦応三年(一三四〇)に生まれました。
館の跡は、高坂台地西側の斜地に立地し、九十九川に向かって下り、南面が大きく開口しています。北と東西に土塁跡、東西に堀跡が残っています。
館は堀を含めると東西一八〇m、南北八〇m前後の規模とみられ、北面中央部の東寄りが山側に突出した形となっています。このすぎ東側で北と東の土塁の交点には、物見台とみられる高まりがつくられています。
東と西側の土塁の外には、現在、水田となった水堀が往時の面影を伝えています。南面は後世に大きく変化していますが、九十九川と谷筋の湿地が外敵を防ぐ役割を果たしていたとみられまうs。
【新編武蔵風土記稿】にも記載されていますが、この館跡は足利基氏が貞治二・天平一八年(一三六三)に反乱をおこした、芳賀高貞(宇都宮氏の一族で下野の豪族)と、いわゆる「岩殿山合戦」を行った時に布陣した場所で、本陣がおかれた可能性が高いと思われます。
しかし、基氏は長期は滞在せずに、すぐに下野国に陣を進めています。そのためこの館は合戦の時に基氏が築いたものではなく、地元豪族が造った館を陣地として利用したものと思われます。(東松山市教育委員会掲示より)
足利基氏の塁跡の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」