上鶴間諏訪神社。富士見市諏訪の神社
上鶴間諏訪神社の概要
上鶴間諏訪神社は、富士見市諏訪にある諏訪神社です。上鶴間諏訪神社の創建年代等は不詳ながら、鶴馬村は少なくとも室町時代には形成され、その頃には創祀されていたのではないかといいます。社記によると、太田道灌の検地に際し、疫病に苦しんでいた村民を見かねて獅子舞を奉納させたところ、日ならずして快癒したと伝えられ、現在でも篤く信仰され、敬神講社が結成されているといいます。
社号 | 諏訪神社 |
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祭神 | 建御名方之命 |
相殿 | - |
境内社 | 八雲神社、八幡神社 |
祭日 | 例大祭8月28日 |
住所 | 富士見市諏訪2-15-34 |
備考 | - |
上鶴間諏訪神社の由緒
上鶴間諏訪神社の創建年代等は不詳ながら、鶴馬村は少なくとも室町時代には形成され、その頃には創祀されていたのではないかといいます。社記によると、太田道灌の検地に際し、疫病に苦しんでいた村民を見かねて獅子舞を奉納させたところ、日ならずして快癒したと伝えられ、現在でも篤く信仰され、敬神講社が結成されているといいます。
境内掲示による上鶴間諏訪神社の由緒
当神社は隣接の氷川神社と同様古代人の住居址の中に建立された神社で創立年度は不詳である。只元禄十二年改築の棟札は現存しているが、御神木の大欅などから推察すると遥か古い時代の創立と思われる。
当社は昔時より特に悪病除、諸厄防除の守り神として信仰厚く氏子の外に東京都下の東久留米市、清瀬市内と始め所沢市、新座市、上福岡市、富士見市内より十一ヶ所の敬神講社を有し毎年八月二十八日の例大祭にはその代参者の参拝がある。当日は徳川時代から継続されている渡戸地区より奉納の獅子舞を始め氏子各地区より奉納物が飾ざられ近郷近在より参拝される善男善女は万余を数える県有数の大祭が執行される。(境内掲示より)
「埼玉の神社」による上鶴間諏訪神社の由緒
諏訪神社<富士見市諏訪二-一五-三四(鶴馬字黒貝戸)>
当地は、新河岸川右岸の沖積地に開けた平地とそれに続く武蔵野台地上に位置し、台地上の突端部に当社が鎮まる。道路を隔てて北西には旧鶴間村上組の鎮守である氷川神社がある。
村の開発は『北条家所領役帳』に「上田左近百七十貫文、入西鶴間村乙柳検地」と載ることから、室町後期にはすでに一村を成していたことが知られ、当社の創建も村の開発にかかわるものと考えられる。
社記によると、江戸城築城後その出城の候補地として太田道灌により当地が検分された折、疫病に苦しむものが数知れずあった。その有様を見た道灌の配下が、京都から三頭の獅子頭と山の神面を譲り受け、字和田戸(現渡戸)の名主繁右衛門の屋敷へ里人を集めて獅子舞を伝え、当社社頭で悪疫退散の舞を奉納させたところ、病に苦しむ者達は日ならずして快癒したという。
祀職は、明治初めの神仏分離まで天台宗瑠璃光寺が別当を務め、以後、江戸期名主の家柄であった加治家が社家となって奉仕し、現在に至っている。
本殿は一間社流造りで、棟札によると享保十六年の建立であり、覆屋・幣殿・拝殿は昭和三二年の造営である。
境内末社は、寛政九年に当村の常山なる者二名による勧請の八雲神社と同一〇年に当村加治文右衛門の勧請による八幡神社がある。「埼玉の神社」より)
新編武蔵風土記稿による上鶴間諏訪神社の由緒
(鶴馬村)
諏訪社
瑠璃光寺の持、
末社。八幡社、牛頭天王社(新編武蔵風土記稿より)
上鶴間諏訪神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)