天龍山徳性寺。ふじみ野市大井にある天台宗寺院
徳性寺の概要
天台宗寺院の徳性寺は、天龍山本乗院と号します。徳性寺は、秀山律師(貞治5年1366年寂)が創建、江戸時代に入り川越街道が整備されると寺運が隆盛し、第14世祐円和尚(万治3年1660年没)が中興、大井宿の中心的な存在でした。明治14年(1881)大井宿の大火により全焼、明治25年に川越南院(或いは川越城遺構とも)より山門を移築、また仮本堂として灌頂院庫裡を移築して再建したといいます。その他、大井村石塔畑から出土した弘安四年(一二八一)銘の板碑や、大井宿南木戸に奉安されていた地蔵尊も移設しています。
山号 | 天龍山 |
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院号 | 本乗院 |
寺号 | 徳性寺 |
本尊 | 阿弥陀三尊像 |
住所 | ふじみ野市大井954-1 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
徳性寺の縁起
徳性寺は、秀山律師(貞治5年1366年寂)が創建、江戸時代に入り川越街道が整備されると寺運が隆盛し、第14世祐円和尚(万治3年1660年没)が中興、大井宿の中心的な存在でした。明治14年(1881)大井宿の大火により全焼、明治25年に川越南院(或いは川越城遺構とも)より山門を移築、また仮本堂として灌頂院庫裡を移築して再建したといいます。その他、大井村石塔畑から出土した弘安四年(一二八一)銘の板碑や、大井宿南木戸に奉安されていた地蔵尊も移設しています。
新編武蔵風土記稿による徳性寺の縁起
(大井村)
本乗院
天台宗、古尾谷本郷灌頂院の末なり、天龍山徳性寺と號す、彌陀の立像を安ず、
觀音堂。行基菩薩の彫せる像を本尊とす、(新編武蔵風土記稿より)
埼玉県ふじみ野市掲示による徳性寺の縁起
天龍山本乗院徳性寺と称し、天台宗比叡山延暦寺が本山である。本尊は阿弥陀三尊。開山である秀山律師は、貞治五年(一三六六)に、大福寺(現坂戸市)にて遷化している。
この寺は、大井宿の中心的な存在であったが、明治十四年一月の大火により本堂をはじめ寺のすべてを焼失した。現在の山門は、川越市の南院(現在は廃寺)から移築したものである。また、仮本堂として灌頂院から庫裡が移築されていたが、老朽化により解体され、昭和四十八年に本堂が、昭和五十三年に庫裡が新築された。
山門をくぐると左手に板碑と地蔵尊が安置されている。板碑は古坂と呼ばれる切通しから出土したもので南北朝期のものが多い市内最大最古の板碑は弘安四年(一二八一)のもので、古坂をのぼったところの石塔畑より出土。地蔵尊は大井宿南木戸からの移設で、柔和なお姿で市の変遷をながめている。(埼玉県ふじみ野市掲示より)
境内掲示による徳性寺の縁起
天台宗天龍山本乗院徳性寺は、川越市古谷の灌頂院の末寺で、伝承によれば、今から四五〇年程前の室町時代、秀山律師により開かれたという。一時、寺勢が衰えたものの、江戸時代前期、第一四世祐円和尚(万治三年・一六六〇年没)により中興された。明治一四年(一八八一年)一月一六日の大井町の大火により本堂・庫裏などの建造物と共に当時の記録を記した記録も失われてしまった。
現在の本堂は昭和四八年(一九七三)に、庫裏は昭和五五年(一九八〇)に再建されたものである。
本尊は、室町時代のものと考えられる阿弥陀三尊像である。本堂には江戸時代初期に大井を領地とした旗本の米津彦七郎(過去帳には彦七とある)の位牌(天和二年・一六八二没)が祀られている。また本堂裏手の墓地には歴代住職の墓塔のほか、元和九年(一六二三)銘の五輪塔(新井家墓地)があり、寺の歴史の古さを今に伝えている。
山門は、大火の後の明治二五年(一八九二)に移築されたもので、川越の南院(廃寺)のものとも川越城の遺構であるとも言われている。この山門の脇には、坂上(小字東台)近くの石塔畑と呼ばれる場所から出土した弘安四年(一二八一)の銘記を持つ板石塔婆をはじめとする二十数基の板石塔婆や大井宿の南の木戸(江戸側)に立っていたとされる石の地蔵など大井の歴史を物語る多くの石造物をみることができる。
また、当寺では、近年まで、遺骸を埋葬する場所(埋め墓)と墓塔を建てる場所(詣り墓)とが異なる両墓制を見ることができた。(ふじみ野市教育委員会・ふじみ野市文化財保護審議委員会掲示より)
徳性寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」