井椋神社。椋神社を秩父(畠山)重綱が勧請
井椋神社の概要
井椋神社は、深谷市畠山にある神社です。井椋神社は、畠山氏が当地に移り住む前より氏神として祀ってきた井椋五所宮(椋神社)を、畠山庄司となった畠山重能の父重綱が平安時代末期に勧請したとされます。明治維新後の神仏分離により満福寺より離れ、明治3年村社に列格、明治41年山王日吉神社、諏訪神社、子太神社、浅間神社、白籏八幡神社を当社境内へ遷座しています。
社号 | 井椋神社 |
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祭神 | 猿田彦命・武甕槌命・経津主命・天兒屋根命・比賣神 |
相殿 | - |
境内社 | 八幡社、蚕影山神社、子大神社・諏訪神社・日吉神社・天神社・八坂神社合殿、荒神社、大雷神・山神大神・壱岐手長男大神・浅間大神・津島姫命・稲荷大神合殿社、金比羅大権現 |
祭日 | 秋祭り10月15日 |
住所 | 深谷市畠山942 |
備考 | - |
- 井椋神社一鳥居
- 井椋神社二鳥居
- 井椋神社社殿
- 井椋神社境内社八幡社
- 子大・諏訪・日吉・天神・八坂合殿
- 井椋神社境内社蚕影山神社
- 井椋神社境内合殿社
- 井椋神社境内社荒神社
- 井椋神社境内社金比羅大権現
- 井椋神社社叢
井椋神社の由緒
井椋神社は、畠山氏が当地に移り住む前より氏神として祀ってきた井椋五所宮(椋神社)を、畠山庄司となった畠山重能の父重綱が平安時代末期に勧請したとされます。明治維新後の神仏分離により満福寺より離れ、明治3年村社に列格、明治41年山王日吉神社、諏訪神社、子太神社、浅間神社、白籏八幡神社を当社境内へ遷座しています。現在境内に鎮座している八幡神社は、字栗坪にあった白籏八幡神社と字八幡にあった八幡神社を明治41年に合祀した社で、白籏八幡神社は天喜年間(1053-1058)に源頼義が勧請、字八幡の八幡神社は旧鎮座地畠山重忠公園、戦死した畠山重忠の甲の八幡座を埋めて祀った社です。
境内掲示による井椋神社の由緒
井椋神社は、畠山氏の先祖である将恒から武基、武綱、重綱、重弘、重能の代に至る間、秩父吉田郷領主として井椋五所宮を敬ってきた。その後、重忠の父重能が畠山庄司となって館を畠山に移した時、祖父重綱が勧請(分祀)したものである。
初めは、井椋御所大明神、井椋五所宮と号していたが、後に井椋神社と改称したものである。
祭神は、猿田彦大神ほか四柱である。そのほか境内には近所の各神社が合祀され、蚕の神様である蚕影神社、源氏の白旗を祭った白旗八幡神社等がある。
また、社殿の裏の荒川断崖に鶯の瀬の碑が建立されている。(埼玉県掲示より)
新編武蔵風土記稿による井椋神社の由緒
(男衾郡畠山村満福寺内)
井椋五所宮
猿田彦命・武甕槌命・經津主命・天兒屋根命・姫大神の五座を合祀す、當社は天治年中、秩父權守重綱、秩父郡吉郷蘆田村に鎮座せる【延喜式】神名帳に出たる椋神社を、勧請して祀る所なりと云傳ふ、社邊に荒守稲荷の小社あり、
山王社
富士淺間社
天神社
八幡社。以上四社、何れも天治年中の勧請と云、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による井椋神社の由緒
井椋神社<川本町畠山九四二(畠山字上川場)>
鎮座地は大字畠山の北寄りの地である。近くには、畠山重忠が、重臣の榛沢成清の所に行き、その帰路荒川の増水で渡河できずにいるところを、鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたといわれる「鶯の瀬」がある。
当日は、坂東八平氏の一族秩父重綱により勧請され、その嫡流重弘・重能・重忠に崇敬されたと伝える。秩父氏は、重綱以来「武蔵国総検校職」を務めた名族である。「畠山」を名乗ったのは重能が最初で、これが当地の荘園領主である初代畠山荘司となった。
当社の本社というべき社は、畠山氏の本流である秩父氏の館があったといわれる秩父吉田郷の惣鎮守「井椋五所神社」であると伝える。
祭神は、猿田彦命・武甕槌命・経津主命・天兒屋根命・比賣神の五柱で、本社と同一である。
江戸期の別当は、真言宗の白田山観音院満福寺で、慶安元年(一六四八)には寺領一〇石余を幕府から付されている。寺伝によると、創建は鳥羽院の御代で、その後、畠山重忠により寿永年中(一一八二-八五)に堂宇が再興されたという。
武蔵国において、平安末期から鎌倉初期にかけては秩父氏の勢力が顕著に発展した時期であり、新たに開発された畠山荘に当社が秩父氏(畠山氏) 一族の氏神として勧請された可能性は十分に考えられる。(「埼玉の神社」より)
井椋神社の周辺図