末広稲荷神社。深谷城の鬼門鎮護として創建
末広稲荷神社の概要
末広稲荷神社は、深谷市稲荷町にある神社です。末広稲荷神社は、深谷に城を構えた上杉憲英が、城の鎮守として祀った一仏三社のうちの「末広稲荷」として創建、深谷城の鬼門鎮護として祀られたといいます。明治45年永明稲荷神社を合祀、村社に列格していました。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | 天神、小御岳・浅間・庚申・古峰・古峰 |
祭日 | 春大祭4月16日、秋大祭10月16日 |
住所 | 深谷市稲荷町22-2 |
備考 | - |
末広稲荷神社の由緒
末広稲荷神社は、深谷に城を構えた上杉憲英が、城の鎮守として祀った一仏三社のうちの「末広稲荷」として創建、深谷城の鬼門鎮護として祀られたといいます。明治45年永明稲荷神社を合祀、村社に列格していました。
新編武蔵風土記稿による末広稲荷神社の由緒
(末広村)稲荷社
一は深谷宿の内新田町、一は稲荷町の鎮守なり、共に村持(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による末広稲荷神社の由緒
稲荷神社<深谷市稲荷町三-二-五八(西島字稲荷周囲)>
康応年間(一三八九ー九〇)、庁鼻和に館を構えた上杉憲英は、館を鎮護するために一仏三社を勧請したと伝えられる。この話に出てくる一仏とは瑠璃光寺の寅薬師のこと、「三社」とは末広稲荷・永明稲荷・智方明神のことである。 寅薬師と末広稲荷は城の鬼門守護、永明稲荷は同じく戌亥守護、智方明神は域内守護の時として祀られたものであった。当社は、この「三社」の一つ、末広稲荷のことであり、城下の発展に伴い、稲荷町の鎮守として、その住民から厚く信仰され今に至っている。
社記によれば、当社の社殿は、享保十八年(一七三三)に上須戸村(現妻沼町)の工匠林兵庫によって施工され、その後文政年間(一八一八-三〇)に境内の立木を用材にして再建されたものである。
本・拝殿共に向拝には竜の彫刻が施されており、その優美さは深谷随一といわれている。なお、別当は、当初地内の東源寺であったが、文政年間以降は修験の宝珠院が奉仕し、神仏分離まで務めた。
明治維新後、当社の社格は、はじめ無格社であったが、明治四十五年二月に大字田谷鎮座の稲荷神社(前出の永明稲荷)を合祀したことにより、村社に昇格した。しかし、この合祀は書類の上だけにとどまり、実際は田谷の稲荷神社は現在も昔のまま旧地に残っており、祭事も旧来のまま引き続いて行われている。(「埼玉の神社」より)
境内掲示による末広稲荷神社の由緒
康正年間(一四五五〜五六)深谷に城を構えた上杉房憲は、城を鎮護するために一仏三社を勧請したと伝えられる。この話に出てくる「一仏」とは瑠璃光寺の寅薬師のこと、「三社」とは末広稲荷・永明稲荷・智形明神の諸社のことである寅薬師と末広稲荷は城の鬼門守護、永明稲荷・智形明神の諸社のことである
寅薬師と末広稲荷は城の鬼門守護、永明稲荷は同じく戌亥守護、智形明神は城内守護の社として祀られたものであった。当社はこの「三社」の一つ、末広稲荷のことであり、城下の発展に伴い、稲荷町の鎮守として、その住民から厚く信仰され今に至っている。なお、別当は、当初地内の東源寺であったが、文政年間以降は修験の宝珠院が奉仕し、明治元年(一八六八)の、神仏分離令まで務めた。(深谷上杉顕彰会掲示より)
末広稲荷神社の周辺図