教念寺。深谷市本田にある時宗寺院

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安養山教念寺。天平20年法相宗寺院として草創、時宗開祖の他阿真教上人開山

教念寺の概要

時宗寺院の教念寺は、安養山阿弥陀院と号します。教念寺は、法相宗玄昉僧正の弟子玄等和尚が天平20年(748)に草創、その後いつしか天台宗に改めていたといいます。永仁6年(1298)に時宗開祖の他阿真教上人が当地に滞留した折、当寺の住僧智観上人が帰依し、他阿真教上人を開山として時宗寺院に改めたといいます。古刹寺院だと知られていたことから、足利基氏、畠山阿波守義清、足利満兼、畠山基国、深谷城主上杉氏憲よりの寄進状を受け、江戸幕府からは慶安2年(1649)寺領10石の御朱印状を受領していました。

教念寺
教念寺の概要
山号 安養山
院号 阿弥陀院
寺号 教念寺
住所 深谷市本田2030
宗派 時宗
葬儀・墓地 -
備考 -



教念寺の縁起

教念寺は、法相宗玄昉僧正の弟子玄等和尚が天平20年(748)に草創、その後いつしか天台宗に改めていたといいます。永仁6年(1298)に時宗開祖の他阿真教上人が当地に滞留した折、当寺の住僧智観上人が帰依し、他阿真教上人を開山として時宗寺院に改めたといいます。古刹寺院だと知られていたことから、足利基氏、畠山阿波守義清、足利満兼、畠山基国、深谷城主上杉氏憲よりの寄進状を受け、江戸幕府からは慶安2年(1649)寺領10石の御朱印状を受領していました。

新編武蔵風土記稿による教念寺の縁起

(男衾郡本田村)
教念寺
時宗、相模國藤澤清浄光寺末、安養山阿彌陀院と號す相傳ふ當寺は天平二十年の法相宗玄昉僧正の弟子、玄等和尚の草創せし道場なりしが、其後天台宗に改む、其頃親王家の枝屬當山に住職たりしこともありしと云、寺門の繁榮知べし、當寺の本尊を俵薬師と號す、今別に堂を立て安置せり、下條参考すべし、其後永仁六年遊行に、祖他阿眞教上人、當國村岡に滞留の時、時宗門同行の大綱書を著せし頃、當寺の住侶智觀上人に参謁して、宗門の歸依に餘り、上人を請て當山の開祖とす、斯て天台を改て時宗となれり、かゝる古刹なりければ、鎌倉管領以来代々の領主等よりの寄附状今に傳へり、其文下に載す、御當代に至りても、慶安二年寺領十石の御朱印を賜ふ、本尊阿彌陀は安阿彌の作にて、立身長二尺三寸、脇士は運慶の作と云、
寺寶
古文書十三通(文面省略)
鐘樓。萬治三年新鑄の鐘を掛く、古鐘もありしかど、故ありて埼玉郡成田龍泉寺へ預け置しを、寶暦年中回禄の災に罹りしといふ、今其銘文のみ舊記に載たれば、左に録す、南無阿彌陀佛、遊行十一世他阿上人、大日本國武蔵國男衾郡本田教念寺、鐘一口、右爲天長地久、御願圓満、殊者大施主息災延命、安穏太平、乃至法界衆生、平等利益、住持大檀那清阿・壽阿・法阿・彌阿・覺阿・大工沙彌大阿・應永十五戊子年三月十一日、
辨天社
閻魔堂
觀音堂
塔頭。松壽(觀音を本尊とす)す(新編武蔵風土記稿より)


教念寺の周辺図