忍東照宮。松平忠明公が大和国郡山城内に創建
忍東照宮の概要
忍東照宮は、行田市本丸にある東照宮です。東照宮は、松平忠明公が寛永2年(1625)、大和国郡山城内に創建、松平家の移封に伴い各地に遷座、文政6年(1823)に桑名藩より忍藩への移封により、忍城内に遷座しました。代々100石の社領を拝領していましたが、明示維新に伴い、明治7年当地へ移っています。
社号 | 東照宮 |
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祭神 | 徳川家康公、松平忠明命、八幡大神 |
相殿 | - |
境内社 | 護国神社、浅間社、皇大神宮、大雷社、土星姫社、金星稲荷社 |
祭日 | 例祭4月17日(徳川家康公命日) |
住所 | 行田市本丸12-5 |
備考 | 行田総鎮守 |
忍東照宮の由緒
東照宮は、松平忠明公が寛永2年(1625)、大和国郡山城内に創建、松平家の移封に伴い各地に遷座、文政6年(1823)に桑名藩より忍藩への移封により、忍城内に遷座しました。代々100石の社領を拝領していましたが、明示維新に伴い、明治7年当地へ移っています。
境内掲示による東照宮の由緒
当社は、家康公の娘、亀姫が父の肖像を頂き、後に子の松平忠明公に伝え、忠明公が寛永2年(1625)、大和国郡山城内に社殿を造営して、肖像を安置したことに始まる。以来、藩主・藩士崇敬の社となった。その後、移封の都度遷座され、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦の折、大坂蔵屋敷内の東照宮を、当社に合祀した。
社領は、郡山当時より百石を受け継ぎ、明治維新まで続く。その地は、埼玉古墳群の辺りであったと・伝えられている。
明治4年(1871)、藩主東京移住のために祭祀断絶の危機を迎えるが、旧藩士ら相計り、同7年に下荒井の地より、本丸の一部である諏訪郭内の忍東照宮境内一隅に本殿を移し、同33年に藩祖、松平忠明公を配祀した。現在の拝殿は昭和五年の造営である。(境内掲示より)
埼玉県神社庁「埼玉の神社」による東照宮の由緒
忍城址のある内行田地区は、室町期成田親泰が城を築き城下の町造りを始めたことが今日の起こりといわれ、特に江戸期は忍十万石の城下の中心として栄えた。
当社は家康の娘亀姫が父の肖像を頂き、後に子供の松平忠明に伝え、忠明が大和国郡山の地に社を造営して、肖像を安置したことに始まる。別当として久昌院が祭祀を奉仕していた。以来藩主・藩士崇敬の社となった。その後、移封の都度遷座され、山形では持命院、福山では福地院、桑名では金剛寺が別当を務め、文政六年桑名より別当ともども忍城内下荒井の地に鍍座した。下って慶応四年鳥羽伏見の戦の
折、大坂蔵屋敷内の東照宮を別当の建国寺とともに当社に合祀した。
社領は郡山当時より百石を受け継ぎ明治維新まで続く。その地は埼玉古墳群の辺りであったと伝えられている。
明治初めの神仏分離、明治四年の藩主東京移住のために祭祀断絶の危機を迎えるが旧藩士ら相計り、同七年に下荒井の地より本丸の一部である諏訪廓内の諏訪神社境内一隅に本殿を移し、同三三年に藩祖松
平忠明公を配祀した。
現在の本殿は文政六年建立の白木の入母星造りで、内陣に県重要文化財の家康公肖像と大坂東照宮にあった神像が祀られている。
境内には浅間社・皇大神宮・護国神社のほか忍城時代の鐘楼がある。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
忍東照宮所蔵の文化財
- 黒糸威二枚胴具足(埼玉県指定文化財)
- 徳川家康公肖像(埼玉県指定文化財)
忍東照宮の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)