棚田神社。旧真福寺境内の天神社
棚田神社の概要
棚田神社の創建年代は不詳ですが、新編武蔵風土記稿によれば、正徳2年(1712)に太井村を太井村・門井村・新宿村・棚田村の四村に分村したということから、正徳2年(1712)年頃までには真福寺と共に棚田神社の前身である鷺明神社・天神社が成立したものと推定できます。当地はもと真福寺境内で、天神社が鎮座していましたが、明治の神仏分離によりここに鷺明神社を合祀、社名を天神社に改めたといいます。更に明治41年には砂畑の鷺明神社と同境内社三峰神社及び同字の諏訪社・三嶋社・天神社を合祀、社名を棚田神社と改めたといいます。
社号 | 棚田神社 |
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祭神 | 日本武尊、菅原道真公 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 行田市棚田町1-53 |
備考 | - |
棚田神社の由緒
棚田神社の創建年代は不詳ですが、新編武蔵風土記稿によれば、正徳2年(1712)に太井村を太井村・門井村・新宿村・棚田村の四村に分村したということから、正徳2年(1712)年頃までには真福寺と共に棚田神社の前身である鷺明神社・天神社が成立したものと推定できます。当地はもと真福寺境内で、天神社が鎮座していましたが、明治の神仏分離によりここに鷺明神社を合祀、社名を天神社に改めたといいます。更に明治41年には砂畑の鷺明神社と同境内社三峰神社及び同字の諏訪社・三嶋社・天神社を合祀、社名を棚田神社と改めたといいます。
境内石碑による棚田神社の由緒
古来棚田の鎮守は、当社鷺明神社で真言宗真福寺の持ちでありました。
真福寺の境内には天神社が祀られておりましたが、明治の神仏分離により天神社を当社に合祀し、社名を天神社と改めました。
更に明治41年字砂畑の鷺明神社と同境内社三峰神社及び同字の諏訪社・三嶋社・天神社を合祀し、社名天神社を棚田神社と改め現在に至っております。
主祭神は日本武尊と菅原道真公であります。
当社の鎮座する棚田は、元荒川の河岸段丘に位置し、水利に恵まれておりましたが、昔はしばしば洪水に見舞われ、その名残で砂畑・砂原・深水・押上等の地名が残っております。天正18年(西暦1590)の忍城の水攻めに使われた石田堤の端が当地に至っており、当社の境内もこの堤の一部でありました。
当社の氏子は白鷺を神の使いとして大切にし、白鷺が水田で羽を安め田を守るように見えたところから、当社は五穀豊穣を祈る神社でありました。
長い間、五穀豊穣を祈る神、学問成就を祈る神として厚い信仰を集め数々の伝統を受け継いでまいりました当社でしたが、第二次大戦の終戦前夜からの米軍機B29の空襲で昭和20年8月14日夜半、社殿は焼失してしまいました。
その後、昭和33年10月応急の社殿が建立されましたが三十年以上も経過し老朽化が著しく、平成7年2月社殿新築委員会を組織し社殿・社務所・境内整備を竣工することができました。
当棚田は国鉄行田駅の開業や土地区画整理事業による道路整備により住宅の増加が著しく、現在では約500世帯1500人の人口を擁し、当社の参拝者は年々増加しております。
時代の幾多の変遷にもかかわらず、町内の方々及び当町を古里にしている方々の今に続く清純な神社崇拝の心と、浄財の拠出によって今日の竣工を迎えることができました。ここに竣工を記念するにあたり、町内の方々及び当町を古里にしている方々の隆盛を祈念し併せて当神社を心のより処として当地区が平和で豊かな明るい郷土として末永く発展することを念願し碑文といたします。(境内石碑より)
新編武蔵風土記稿による棚田神社の由緒
新編武蔵風土記稿には太井村項に鷺明神社二宇とあり、それぞれ棚田の鎮守、門井の鎮守と記載されています。また合祀したという三島社も記載されています。
鷺明神社二宇
一は門井の鎮守にて、徳円寺持、
一は棚田の鎮守とす、真福寺持。
三島社、真福寺持(新編武蔵風土記稿より)
合祀した天神社の由緒
当地にもともと鎮座していた天神社は、真福寺の境内社だったといい、新編武蔵風土記稿真福寺項に記載されており、神体は元大里郡佐谷田村小名田中(熊谷市佐谷田)にあったもので、久下權頭直光の守護神だったといい、享保年中に領主(忍藩阿部家)に願い出て、当地へ遷したといいます。
天神社
神体は木像なり。久下權頭直光の守護神にて、元大里郡佐谷田村の内、小名田中と云所にありしを、享保の頃領主へ願ひ境内へ移せりと云。この直光が事同郡久下村に出たれば、爰には略す。(新編武蔵風土記稿真福寺項より)
棚田神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)