伊奈利神社天神社合殿。旧堤根村鎮守
伊奈利神社天神社合殿の概要
伊奈利神社天神社合殿の創建年代や由緒については不詳ですが、新編武蔵風土記稿によると、堤根村・堤根新田村共に、石田堤の跡に洪水を避けるようにして堤の下に出来た村落で元禄年間前に樋上より分村したといい、またもと別当寺の永徳寺の創建が元和年中(1615-1623)といわれることから、江戸時代初期に創建されたものと推定され、旧堤根村鎮守となっていました。合殿に祀られている天神社は享保11年に合祀されたものといいます。
社号 | 伊奈利神社天神社合殿 |
---|---|
祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | 菅原道真公 |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 行田市堤根742 |
備考 | 旧堤根村鎮守 |
伊奈利神社天神社合殿の由緒
伊奈利神社天神社合殿の創建年代や由緒については不詳ですが、新編武蔵風土記稿によると、堤根村・堤根新田村共に、石田堤の跡に洪水を避けるようにして堤の下に出来た村落で元禄年間に樋上村より分村したといいます。またもと別当寺の永徳寺が僧宥慶(寛文11年・1671年寂)による創建といわれることから、江戸時代初期に創建されたものと推定され、旧堤根村鎮守となっていました。合殿に祀られている天神社は享保11年に合祀されたものといいます。
新編武蔵風土記稿による伊奈利神社天神社合殿の由緒
稲荷社二宇
一は本村にあり、一は新田にあり。共に鎮守とす。永徳寺の持。(新編武蔵風土記稿より)
埼玉県神社庁「埼玉の神社」による伊奈利神社天神社合殿の由緒
当社は、往古より堤根の鎮守として祀られている。「明細帳」によれば、元禄期に堤根村が本村と新田に分かれたことにより、当社もまた両村に分かれ、本村のものは本田鎮守、新田のものは新田鎮守と称して祀られていたという。共に永徳寺を別当とし、享保10年3月2日に神祇管領兼敏より正一位に叙され、この時贈られた神位の入った神璽筈は現在も両社に祀られている。
明治初めの神仏分離によって永徳寺の管掌から離れたため、創建以来永徳寺の境内にあった本田鎮守を新田鎮守の境内に移し、新たに覆屋を造り、その中に両社の本殿を納め、今日の形となった。本殿は両社とも同一のもので、享保2年に建築された一間社流造りである。
また、覆屋の中にはこの両社のほかに、天神社がある。この天神社は享保2年に、伊奈利神社の新築を契機に合祀されたものというが、資料を欠くため、元はどこにあったのかは不明である。
現在、境内に樹木は少ないが、かつては鞍・櫓の大木が鬱蒼と茂っていた。しかし、昭和23年の永徳寺新築の際、これらの樹木を資材として提供し、その後植林した樹木も相次ぐ台風で倒れてしまったため、往時の面影はない。昭和53年、境内地を利用した堤根農民センターの建設に伴い、境内の整備が行われ現在に至っている。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
伊奈利神社天神社合殿の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)