應珠山長久寺。成田氏十四代下総守顯泰が忍城築城の際鬼門鎮護として開基
長久寺の概要
真言宗智山派寺院の長久寺は、應珠山擁護院と号します。成田氏十四代下総守顯泰(法名清岳成安)が開基、僧通傳法印が開山となり、文明年間(1469-1487)に長久寺を創建したと伝えられています。寺号は、成田氏十四代下総守顯泰が忍城築城の際に、鬼門鎮護の道場として武運長久を祈り、長久寺としたといいます。代々城主の祈願所となり、忍藩初代藩主の松平忠吉(松平秀忠の弟、のち尾張藩主)の帰依を受けた他、慶長9年(1604)には寺領30石の朱印状を拝領しています。
山号 | 應珠山 |
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院号 | 擁護院 |
寺号 | 長久寺 |
本尊 | 退蔵界大日如来像 |
住所 | 行田市桜町2-20-44 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長久寺の縁起
長久寺は成田氏十四代下総守顯泰(法名清岳成安)が開基、僧通傳法印が開山となり、文明年間(1469-1487)に長久寺を創建したと伝えられています。寺号は、成田氏十四代下総守顯泰が忍城築城の際に、鬼門鎮護の道場として武運長久を祈り、長久寺としたといいます。代々城主の祈願所となり、忍藩初代藩主の松平忠吉(松平秀忠の弟、のち尾張藩主)の帰依を受けた他、慶長9年(1604)には寺領30石の朱印状を拝領しています。
新編武蔵風土記稿による長久寺の縁起
長久寺
新義真言宗、山城国醍醐報恩院末、應珠山擁護院と号す。寺領三十石の御朱印は、慶長9年12月賜はれり。当寺は忍城の艮の方にあれば、昔より城主の祈願所たりしと云。忠吉卿御在城の時も御帰依あり、尾張清洲へ御移りの後、彼城の艮の方にも、別に長久寺と御造営ありて、今に存せり。当寺の草創は文明の頃、成田下総守顯泰開基旦那として、通傳法印起立す。顯泰法名清岳成安、文明16年4月8日卒す。通傳は同18年8月朔日化す。後顯泰の子下総守親泰再興せり。法名貞崗宗、大永4年6月8日卒す。本尊大日を置く。
鐘楼。
元禄7年松平伊豆守信輝願主として鋳造す。
護摩堂。
興教大師の作れる坐像の不動を安ず。
久伊豆社。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による長久寺の縁起
長久寺は、新義真言宗の寺で應珠山擁護院長久寺と称し、本尊は退蔵界大日如来である。
創立は文明年間(1469-1487)で、開基は成田氏十四代下総守顯泰、開山は僧通傳である。顯泰は忍城を築くにあたって、鬼門鎮護の道場を建立して、武運長久を祈り、寺名も長久としたという。長久寺の古記録に応永年間(1394-1427)成田五郎家時建立とあり大檀那顯泰となっている。この古記録は宝暦12年(1762)9月に記されたものである。これから察すると、成田家中興の英主であった祖父の家時に開基の功徳を譲って、顯泰は大檀那となったと思われる。
長久寺の本堂は、天正18年(1590)石田三成忍城水攻めの時、兵火によって焼けたのを始めとして、再建、焼失をくり返し、現在の堂宇は弘化5年(1848)に建立したもので、明治28年に瓦葺に改めた。
なお、本寺には市指定絵画の「絹本着色両界曼陀羅・紙本着色十二天画像」、市指定書籍の「大般若経」、市指定の天然記念物の「菩提樹・公孫樹」等がある。(境内掲示より)
長久寺所蔵の文化財
- 紙本墨書大般若経(埼玉県指定文化財)
- 紙本着色羅漢画像(行田市指定文化財)
- 絹本着色両界曼陀羅(行田市指定文化財)
- 長久寺の公孫樹(行田市指定天然記念物)
- 長久寺鐘楼(行田市指定文化財)
- 長久寺山門(付扁額)(行田市指定文化財)
紙本着色羅漢画像
三幅の羅漢図で、縦1.22m、横56cm。
彩色は淡彩的で、鉄線描と太細混交の蘭葉描とを交ぜた描法で貴品に富んだ傑作。
寺伝では明兆の作と伝えている。(行田市教育委員会掲示より)
絹本着色両界曼陀羅
この両界曼陀羅は、元亀3年(1572)に平島佐渡守道範によって寄進されたものです。縦1.4m、横1.8m。
羯磨と輪宝の書表装の豪華典麗なもので、極彩色の上に沢山の載金を用いています。(行田市教育委員会掲示より)
長久寺の公孫樹
樹勢旺盛な巨木で幹はまっすぐに伸び、枝は傘状に四方に張っている。高さ約30m、目通り4.4m。(行田市教育委員会掲示より)
長久寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿