観福寺。国指定史跡の南河原石塔婆、行田救済菩薩十五霊場
観福寺の概要
高野山真言宗寺院の観福寺は、慈眼山真南院と号します。創建年代は不詳ですが、室町時代の創建と考えられています。観福寺には、河原太郎高直・同次郎忠家の供養板碑と伝えられる南河原石塔婆(国指定史跡、文応2年1261銘)が所蔵されています。観福寺は、行田救済菩薩十五霊場6番となっています。
山号 | 慈眼山 |
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院号 | 真南院 |
寺号 | 観福寺 |
住所 | 行田市南河原1500-1 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 行田救済菩薩十五霊場6番 |
観福寺の縁起
観福寺の創建年代は不詳ですが、新編武蔵風土記稿によると、延宝6年(1678)銘の鐘楼があったといいます。
新編武蔵風土記稿による観福寺の縁起
(南河原村)観福寺
新義真言宗、上野国邑楽郡赤岩村光恩寺末なり。慈眼山真南院と号す。本尊大日を安ず。
観音堂。正観音を安ず。行基の作。河原太郎の守佛なりしと云。
河原兄弟碑。(中略)
鐘楼。鐘は延宝6年の銘を彫れり。
弁天社。
天神社。
諏訪社。(新編武蔵風土記稿より)
観福寺所蔵の文化財
- 南河原石塔婆(国指定史跡)
国指定史跡「南河原石塔婆」
現在観福寺境内に所在する二基の大型板碑は、鎌倉時代中期の代表的な板碑として知られ、昭和3年に「南河原石塔婆」という名称で国の史跡に指定された。
江戸時代後期に編さんされた「新編武蔵風土記稿」埼玉郡南河原村の観福寺の項には、これらの板碑は当地出身の武蔵武士で、源平争乱の際に摂津国生田の森(兵庫県神戸市中央区)の合戦で討死した河原太郎高直・同次郎忠家(「平家物語」では盛直)兄弟の供養碑であるとの伝承を載せているが、真偽については「彼兄弟の碑とせんには、年代違へり」と述べている。また同書によれば、これらの板碑はかつて村の北の畑中にあったが、後年、観福寺に移されたという。
文応2年(1261)銘の板碑は、台上高263cm、幅65cm、厚さ9cmで、上半部には阿弥陀如来をあらわすキリークという種子(仏をあらわす梵字)と蓮座が大きく深く薬研彫りされ、下半部には阿弥陀三尊の図像が線刻されている。また最下部には紀年銘を中心に12名ほどの人名が刻み込まれている。
これらの板碑は、木造トタン張りの簡単な覆屋の中に収められていたが、石材の劣化などがすすんだため、平成4年度から国・県の補助事業として板碑の保存修復がはかられ、平成7年から新しい覆屋の中で保存・管理されることになった。(文化庁・埼玉県教育委員会・行田市教育委員会掲示より)
観福寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿