猫の足あとによる埼玉県寺社案内

我野神社。飯能市吾野の神社

我野神社の概要

我野神社は、飯能市吾野にある神社です。我野神社の創建年代等は不詳ながら、景行天皇40年に日本武尊御東征に際し、当地に遠祖神を勧請、景行天皇56年に諸別王が平安を祈り日本武尊・建御名方神を合祀し、三社(みやしろ)と称したと伝えられます。建久2年(1191)には源頼朝の命により秩父次郎重忠が奉行して社殿を造営、建久8年には当地の領主となった岡部六弥太忠澄が鳥居を再建するなど崇敬を受けてきました。天正年間に社号を三社大明神から妙見社と改称、慶安年間(1648-1652)には社領3石5斗の御朱印状を江戸幕府より受領しています。明治元年、神仏分離令により社号を我野神社と改称、明治7年村社に列格していました。

我野神社
我野神社の概要
社号 我野神社
祭神 日本武尊、天御名方主命、建御名方命
相殿 -
境内社 愛宕社、磯前神社、天神社・疱瘡社・稲荷社・愛宕社・山神社・白山社、社殿内(諏訪社・熱田社)
祭日 川瀬7月最終金土曜日
住所 飯能市大字吾野226-1
備考 -



我野神社の由緒

我野神社の創建年代等は不詳ながら、景行天皇40年に日本武尊御東征に際し、当地に遠祖神を勧請、景行天皇56年に諸別王が平安を祈り日本武尊・建御名方神を合祀し、三社(みやしろ)と称したと伝えられます。建久2年(1191)には源頼朝の命により秩父次郎重忠が奉行して社殿を造営、建久8年には当地の領主となった岡部六弥太忠澄が鳥居を再建するなど崇敬を受けてきました。天正年間に社号を三社大明神から妙見社と改称、慶安年間(1648-1652)には社領3石5斗の御朱印状を江戸幕府より受領しています。明治元年、神仏分離令により社号を我野神社と改称、明治7年村社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による我野神社の由緒

(中澤組)
妙見社
神體銅像長五寸、左に毘沙門天、右に諏訪明神の木立像を安ず、阪石村・本村(南村)及び中澤の内小名三社の鎮守なり、例祭六月十五日・十一月三日慶安年中三石五斗の社領を附せらる、神職朝日播磨吉田家の配下なり、縁起の略に曰、武州秩父郡我野郷三社大明神は、妙見大菩薩なり、左脇日本武尊本地毘沙門天也、右脇者獵師宮本地諏訪大明神也、仲哀天皇丙子年十一月三日、三神相共現于茲云々、建久八年岡部六彌太忠澄再興社頭、其後天正六年大石遠江守源秀信建立之云々、棟札あり、裏に會所當宮大夫左衛門太郎、筆者靈蔵坊と記す、此外應永三年の棟札あれども、文字滅して讀難し
天満宮、辨財天。以上合社
愛宕社、薬師十二神、子安明神。以上合社(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による我野神社の由緒

我野神社<飯能市南一一五二(南字三社)>
当地は秩父山地高麗川の上流にある。高麗領上我野郷に属し、元文三年南村から分郷して中沢組となる。地名中沢は周囲に我野・名栗などの山々があり、中を沢が流れるところから名付けるという。
社の創建は、社伝に「景行天皇四〇年日本武尊御東征の砌り、当地に遠祖神を勧請せられ、次いで同五六年一一月御諸別王が平安を祈り日本武尊・建御名方神を合祀して三社と号す」とあり、また『風土記稿』には「仲哀天皇五年に三神相共に現れ、云々」とある。
当地の開発は古く、隣接の地秩父に慶雲五年和銅の産出があり、下流の地飯能には霊亀二年高麗人の入植が行われる。高麗川に沿う秩父街道は文明の古道であり、社地はこの街道にある。
祭神三柱にちなんで、三社と呼び現在に及ぶが、この呼び名は南村あるいは中沢組よりも古い呼称であるという。
所蔵古文書の『建久二年右大将源頼朝御造営』には、棟札の写しがあり「御造営三社大明神 建久二年亥年十月吉日 右大将源頼朝承士八人 秩父次郎重忠奉行之 社職朝日藤太夫元次」と記され、更に奥州泰衡追討祈願成就につき二〇〇町余の山畠安堵の文を載せ「武蔵国巨敖亀山三社大明神今度下向奥州泰衡追伐願望依成就全令再興就天下之諸役神殿等重寄申由之事并吾那村之内山畠合弐百町余永無相違之状如件 建久ニ亥十一月三日 鎌倉之右大将源頼朝承士八人」とあり、次に頼朝の献詠と伝える「万代もかけて吾那のひとむらに鎮まりませるみやしろのみや」の一首を記している。また社地からは布目瓦が出土し、鎌倉期の建築を物語っている。
社蔵古文書から、その後の造営をみると、建久八年九月の岡部六弥太忠澄が大檀那となった鳥居再建、永仁四年八月の将軍久明王発願本殿造営、応永三年一一月紹恵本殿再営、天正六年一一月三日本殿再建などが挙げられる。ほかに神輿の棟札として「奉再興一社 大檀那泰忠(岡部) 天文十九年戌六月二日細工永茂 執行太夫左衛門五郎」がある。末社愛宕社と大山祇社には嘉元三年三月五日の棟札があり、同弁天社は永禄五年四月初巳日の棟札、同疱瘡社は慶長五年六月の棟札をそれぞれ社殿に納めている。
社伝に「天正年中迄、三社大明神と唱え、其後妙見社と唱え来る」とある。秩父地方の妙見信仰は、秩父神社を中心として盛んで、俗に妙見七社といわれるが、当社はこの七社には含まれていない。
当社の信仰は流星で、当社から顔振峠を越え日高に至る借宿・三輪・春日・出雲伊波比の諸社と名栗の星宮が直線状に分布し、それぞれ流星伝説がある。秩父の妙見信仰とこの流星の信仰を比較すると信仰系譜が異なるように思われる。
祀職は代々朝日家で、現在の宮司は朝日津守である。(「埼玉の神社」より)

飯能市史資料編による我野神社の由緒

創建年月日は、はっきりしないが、社伝によれば、景行天皇の時代、日本武尊東征の途次、天御名方主命を勧請、のち、諸別王が日本武尊と建御名方命の神を奉斎して三社大明神と称したという。同社の棟札文によれば、鳥羽天皇の建久2年(1191)に至り、源頼朝御造営とある。明治元年9月妙見宮を我野神社と改称。同7年村社に列した。(飯能市史資料編より)


我野神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「飯能市史資料編Ⅳ社寺教会」