吾野天神社。飯能市吾野の神社

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吾野天神社。飯能市吾野の神社

吾野天神社の概要

吾野天神社は、飯能市吾野にある神社です。吾野天神社は、延喜元年(901)に菅原道真が左遷された際、その一族も諸国に左遷され、当地に左遷されたその一人が、京に戻る際に別離の形見として置き残した筆と硯を神體として小祠を建てて創祀したといいます。建久3年(1192)には鎌倉幕府の許可を得て、天満宮と称して社殿を造営、江戸期には坂元村の鎮守として祀られていました。現在は椚平・小床の鎮守として祀られています。

吾野天神社
吾野天神社の概要
社号 天神社
祭神 菅原道真
相殿 -
境内社 猿田彦社・毘沙門社・愛宕社
祭日 春祭2月25日、秋祭11月25日
住所 飯能市吾野617
備考 -



吾野天神社の由緒

吾野天神社は、延喜元年(901)に菅原道真が左遷された際、その一族も諸国に左遷され、当地に左遷されたその一人が、京に戻る際に別離の形見として置き残した筆と硯を神體として小祠を建てて創祀したといいます。建久3年(1192)には鎌倉幕府の許可を得て、天満宮と称して社殿を造営、江戸期には坂元村の鎮守として祀られていました。現在は椚平・小床の鎮守として祀られています。

新編武蔵風土記稿による吾野天神社の由緒

(阪元村)
天満社
神體白幣當村の鎮守なり、例祭正月廿五日、除地二段一畝四分、本山修験、正學院満蔵院兩別當持
春日社
山神社 (新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による吾野天神社の由緒

天神社<飯能市坂元六三〇(坂元字天神平)>
当社は社記によると、延喜元年、菅原道真公が筑紫へ左遷された時、その係累の多くもまた諸国に流された。当地にも菅公の御子の一人が配流され、父の形見である筆と硯を拝しながら暮らしていた。菅公の死後、延長元年、天皇が菅公の左遷を解き、元の官に復させたことから、諸国に流されていた一族も帰京が許された。このため、この御子も京に帰ることとなったが、出立の際に別離を惜しみ、悲しむ村人に日夜拝していた筆を硯を残していった。そこで村人は、菅公の御子が住んでいた所に小祠を建て、遺品の筆と硯を納めてその徳を慕い、ときに集まって祭りを行った。
その後、天暦元年、北野に天満宮が造営され、菅公が祀られるようになったことから、当社に対する村人の崇敬も一層厚くなり、建久三年には鎌倉の庁へ伺いをたて、祠を建て替え、社名も天満宮と称するようになった。
古くは当地の本山派修験正学院と満造院の二寺が別当であったが、いつのころか両別当というのは良くないということになり、神社に隣接してあった満造院が単独で別当を務めるようになった。神仏分離の後は、教導職となった旧満造院の和雅名賢造が祀職となっていたが、その没後は我野神社社家の朝日家が務めている。(「埼玉の神社」より)

飯能市史資料編による吾野天神社の由緒

創建年月日は、はっきりしない。神社誌によれば、社伝を引用して、次のようにしるす。
醍醐天皇の延喜元年(901)菅公筑紫へ左遷に伴って当地に在住した一族の某が延長元年(923)菅公の帰京が許されたので、その某も、かねて大切にしていた筆硯を記念に残して帰京した。村人はこれを祠堂に納めて祀った。のち建久3年(1192)鎌倉へ伺いをたて、小祠を建替えて、当所の鎮守として、天満宮と称した。(飯能市史資料編より)


吾野天神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「飯能市史資料編Ⅳ社寺教会」